がらにもなく 音楽の話

北河内郡 大字(おおあざ) 招堤(しょうだい)村の片田舎で育った、私には、五嶋みどりさんとか龍君のような英才教育とは程遠い世界でした。

(教育環境)

NHKラジオが放送する昼の番組、”昼の憩い”を母と一緒に聴く程度です。あとは、石黒敬七(?)さんが出ている、クイズ番組である”とんち教室”でした。 あ~古いね~~団塊世代以上でないと判らんやろね。

それと、親父が購読していた”ジュリスト”(これは法律の専門書で判らん)と”LIFE"という英語の大判写真雑誌でした。これは、写真なので珍しい海外の戦争の場面とかがリアルに掲載されていた記憶があります。結構、悲惨な写真が多い記憶があります。

(バイオリンを習わされる)

小学校に入る前から、母が何を勘違いしたのか、バイオリン教室に私を通わせました。駅まで数キロもかかる鄙びた土地なのに、母は探し出して、一駅隣の町の先生を探し出し通わせました。

1/2か1/4のバイオリンを買い、練習をさせられた。これが、苦痛でしたね。日頃は犬のメリーと遊んだり、鶏の卵を回収してればいいのに、得たいの知れないバイオリン、困りました。母は、自分が死ぬときに息子にバイオリン弾いて貰うのが夢であったそうです。それは、大きくなってから姉から聴かされました。

(脱落する)

やはり、駄目でしたね、何回か演奏会にもでましたが、才能はありませんでした。あまり、言葉が喋れない事も原因にありましたが、小学生の高学年かそこらで脱落しました。ザリガニ取りの方が向いていたようです。

(歌声喫茶が流行る)

学生時代、フォークソングが流行り”歌声喫茶”のブームが到来した。山をやっていましたので、山の歌は得意になり時折、東京に出て来てからも、新宿あたりの”歌声喫茶”に仲間と顔をだしました。歌集が配られ、ロシア風の服装をしたおじさん達が歌唱指導をするんですね。今から考えると”あ~~~恥ずかしいね”。

結論から言うと、いろんな、音楽に触れはしたが、カラオケしか出来ない親父となりました。今からでも遅くない、”チェロ”でも始めようか?時折、友人が始めたので誘惑に駆られるが、ふんぎりがつかない今日この頃である。

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張継 『楓橋夜泊』

張継 『楓橋夜泊』

月落烏鳴霜満天 月落ち烏鳴き 霜 天に満つ
江楓漁火対愁眠 江楓 漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外の寒山寺
夜半鐘声到客船 夜半の鐘声 客船に到る

注: 霜は当時空から降るものと考えていたそうですね。寒山寺は有名です、拾得はんが住んでいた。
姑蘇は蘇州の古い名前

この、漢詩は中学か高校の教科書で学んだ筈ですが、私の母方の叔父さんの床の間に飾られており
印象が深い。

この叔父さんは戦前に上海に15年の長きに渡り、武田薬品の現地責任者として滞在していました。
蘇州は芸者さんが美人で『蘇州芸者』は京都の祇園の『芸者はん』と遜色無しと。
話は戦前の話ですから、皆さん信用しないで下さいね。

私はこの七言絶句の詩が好きで、高校生の頃叔父さんの床の間の掛け軸(多分石碑の拓本)
を一気に歌うと、嬉しそうな叔父と叔母の顔がこちらを向いていました。

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法隆寺の至宝

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昭和資材帳 4 "法隆寺の至宝” 彫刻 木彫  小学館 15000円 ISBN4-09-562004-8

(帯) 日本文化の原点・法隆寺
    無尽蔵と言われる寺宝のすべてを調査
    国家的事業規模で編集された
    写真総目録
 昭和60年11月20日初版発行

どうしても欲しかったです。大金をはたき、初版を購入できました。嬉しかったです。
私の法隆寺への憧憬は自宅でこの写真集を調べ、そして法隆寺を訪ねる。
建物だけでなく、彫刻、木彫すべてが魅力です。
梅安さん浅茅原先生ともよく出掛けました。

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コンテンツ時代 ル-カスフィルム編

ハビタット タッカ-
1988年頃の話ですが、当時ル-カスは双方向映画の研究をされていました。先ず、コンピュ-タを使いゲ-ム風に複数のキャラクタを登場させお互いに会話が出来る環境を作り(ビジュアルチャット)お客がそれぞれのキャラクタになり手元のコンピュ-タの端末で会話を入力する、そしてシナリオの存在しない物語をお客様に作って頂くライブ映画の製作をしていました。そのプロトタイプをベ-スに当時の開発途上でしたFM Townsで製品化出来ないか?これをネットワ-クゲ-ムに出来ないか?そんな発想で交渉に乗り出しました。サンフランシスコの北、金門橋を越えて少し北に行くと、ル-カスの本拠地”スカイウヲーカ ランチ”があります。広大な山を買い取り、所々に民家風の建物が点在しています。ここが、ポストプロダクションの本拠地なのですね。まるで、広大な牧場です。仕事場というか、普通の自宅のようなもんですが、そこで仕事をします。猫もいるし、なんら自宅と変わりません。しかし、ポストプロダクションのコンピュ-タ設備は驚きです。あまり詳細にここで描写すると企業秘密に触れますので割愛しますが、巨大なサ-バと各作業の部屋は高速LANで結合され、ロスとか色んな場所で撮影されたラッシュフィルムをここに集結し先ず、全てをデジタル化します。そして、ポストプロダクション作業が開始されます。音も世界各国の言葉で複数トラックに録音して行き、並行して作業を進めます。作業に入ると数ヶ月はここで缶詰になるので、普通のコンクリ-トの事務所では発狂してしまいます。なるだけ、人間が自宅で住んでいる環境を提供しているんですね。私は、当時、タッカ-の映画のポストプロダクションも終わり、映画が完成した場面に遭遇しました。コッツポラ監督作品、ル-カス提供でしたが、その完成式に立会いました。先ず、制作に関係した人々だけで観賞するんです。映画館はこの牧場にあるんですね、部屋はナパバレ-のワインを醸造した樽の板を張り詰めた壁で覆われています。ほのかなワインの香りがします。巨大な米国の自動車産業に立ち向かったヒ-ロの話で、フロントのライトが三つあるんです。ご存知の方々もおられると思います。最後にパ-テイですね、私も、記念品の車の模型を頂き製作者の皆様とワインに酔いしれました。物創りを終えた喜び、映画が売れようが売れまいが関係ない・・・満足できた映画が出来たこの職人の喜びが底から怒涛のごとく湧き出す喜び!まさか、私がその後映画のプロヂュ-サをやらされるとは夢にも思いませんでした。その後、プロトタイプの双方向映画の素材は姿を変えて、私の同期の愚直の親友である福田さんが”Fujitsu HABITAT”として世の中に出しました。Townsの目玉の商品としてです。仮想空間での街作りのゲ-ム様式を踏まえていますが、文化人類学的にも多くの波紋を呼び、大学の先生方が研究テ-マとされました。

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空海さん

2004_04160017.JPG娘に頼まれて仏蘭西の旦那の面倒をみた。東京国立博物館で丁度、弘法大師入唐1200年記念の”空海と高野山”特別展示があり訪問した。

中学生のワンゲル時代には金剛山とか高野山(女人禁制)によく山登りをした記憶がある。

社会人になっては色々な書物で大師さんの歴史を勉強するようになった。先ず、司馬遼太郎さんの本で入唐の小説を読み、司馬さんの友人の陳舜臣さんの小説”曼荼羅の人-空海求法伝”徳間文庫(上、中、下)を読んだ。多分、トンデモ親爺(Mu)が好きなのは、榊莫山(さかき ばくざん)さんの小説”空海書韻” 美術公論社 ISBN4-89330-109-8 C0093 (2100円)でしょうね。

昔から疑問であったのは、彼の海外出張を自分の費用で賄つた事です。最澄さんは国費留学生。莫山さんは高野山系の水銀集団、丹生族がかれのスポンサ-であったという説です。大師さまの歩かれた西国88箇所も鉱山との関係が深いそうですね。

仏蘭西人には空海さんを”日本のレオナルド・ダビンチ”と紹介しておきました。娘夫婦は東北旅行をして、数多くの”生き仏さん”を見てきたそうなので、空海さんが最初の”生き仏さん”やで~と紹介しておきました。しかし外人に金剛界(Diamond World)とか胎蔵界の曼荼羅を説明する知識ガ無いので苦労した。

しかし、金剛峯寺という寺は”山の正倉院”と呼ばれるだけのものは、ありますね。国宝の宝庫でありました、感激。密教の正当を恵果和尚から引き継いで見事に日本で花を咲かせたもんです。

展示場で気になったのは、密教の秘儀と言われるツ-ル類ですね。最後に展示場でお年寄りの御婦人に質問を受けました。”あの~大師さまの生涯の履歴に何時身罷れたのか記述ガ無いのですが??” 私は、御婦人に

”今でも大師様は生きておられるのですよ!”と。

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Kansai-jin 研究

 私もこの歳になるまで、世界中を渡り歩いて来たが関西人は実に奇妙な思考方法をするし、行動も奇妙である。何故にその様なDNAを持つのか? ここは歴史家joとしては迫ってみたい。

この分野については、真面目な学者さんが研究をされているので、邪魔する積もりは無いが今後も研究を続けて行きたい。

 (従来の説)

 先ず、通常の学説は(1)戦国時代から江戸時代に侍(お上)に支配されていない。江戸時代でも浪速には侍が200人しか居なかった、市民自治組織で運営された。従い官僚的発想が無い、全て経済的にも自立した考え。

 (2)毎日厳しいお金の交渉をしているので、そこに、少しでも刺が立たぬよう独特の会話手法が発達した。

 (3)価値観として、得か損しか存在しない。電車の中で学生が会話しているのを聴くと、よく 『あ~~得したわ!』『あ~~損したわ!』と言う会話が聴こえる。

 (4)せっかちである。信号が変わるか変わらないうちに、横断歩道に飛び出す! 関東では見られない現象である。何故急ぐか! これも商業の国の厳しい環境が刷り込まれた・・・と言う説。

 (5)社会道徳が極めて低い。ホームで関東のように列をつくらない、割り込む。これも、可哀相な得と損しか持たない民族の悲哀である。・・・・・・等々。本当にそうであろうか? 私は関西人が今後の21世紀のグローバルな時代には重要な役割を担うと考えている。時代を大きく変換する時は必ず京都が舞台になる。

 (事例研究)

 さて、今回は作家『浅茅ヶ原先生』を実験材料にして研究してみましょう。結論から述べる。 (1)関西人DNA1:関西の男性は先ず女性にもてる事を第1に考える。(2)関西人DNA2:関西の男は第三者の男性を利用して女性が自分に近寄るように戦略を練る。

 事例で証明しましょう。 Mublogを参照してみましょう、先ず、『京都駅』のblogですが、先生は先ず誰でもが感心ありそうな、京都駅を題材にあげる。先ず大事な事は興味対象を専門的なものに絞らない事である。

 そこで、阿呆なjo氏が突拍子もない馬鹿な話をする。(駅空間でラジコン飛行機大道芸をして金の儲ける話)、ここで、通常の関西人以外であれば、馬鹿な話なので適当にあしらうのが得策と考える。

しかし、先生は違うのです、joは単なる利用すべき男であり、すかさず、この馬鹿な提案に乗る。更に、話を盛り上げる戦略に出る。馬鹿な提案を褒め、更に話題を拡げる。この様に褒められるとjo氏は有頂天になり、先生は自分の事をよく理解してくれる人だと考える。

 ここで、仲間意識が生まれ、更に話題が馬鹿話を掘り下げる方向に向かう。そうこうしてるうちに、女性が近ずいて来る。そうすると、jo氏は不要である、すかさず、女性を取り込む行動に出る、素早く無ければいけない、もたもたしてると、阿呆なjo氏に取られてしまう。そこで、ここからは、jo氏を見捨て、ひたすら女性を相手に対応する。

 実は、先生のMublogでの行動を分析されれば、殆ど、阿呆なjo氏との会話はこの行動原理に支配されている事を理解出来る筈である。

  (結論)

 実は、この行動原理は平安の昔から延々と続いた風習なのだ。如何に手紙で女性の気を引くか! あの手この手を考えて『詩(うた)』を作る。先ず、今回は日本の原点である母系社会で守られた世界で男が如何に苦労して生きて来たか! この悲しい歴史DNAが関西人に化石のように残存しているのである。(1話 終わり)。

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コンテンツ時代(清明上河図)

 浅茅ヶ原の旦那より、コンテンツ時代の話を所望されているので、恥ずかしい歴史ですが私が特に関係したものに触れて行きたい。

 先ず今回は台北の故宮博物院と台湾のLee&Lee commmunicationsの会長、総経理の人々との出会いによる作品群に触れてみたい。

  『清明上河図(せいめいじょうがず)』のCD ROMを出版した。この絵巻物は中国の人々にとり、心の故郷と言われています。中国の人々とお付き合いされるならば、先ず、この絵巻物について知識が無ければ到底本当の腹を割った付き合いが出来ません。それだけ、中国の人にとり重要な作品だそうです。

 理想とした国家の姿、繁栄した都、人々の活気に満ちた風景、この様な世界に誇れる国が中国である。この作品は北宋の都ベン京(現在の開封)の風景を描いた長尺の絵巻物であり、原作は北宋の時代に画家『張択端(ちょうたくたん)』が描き、今は北京の故宮博物院に保管されている。

 その後、歴代王朝はこの絵巻物を描き続けて、台北の故宮博物院には清王朝の乾隆帝の勅命により宮廷画家たちが描いたバージョンが存在します、私は近畿大学教授の古屋先生の御協力を得てCD ROM版を出版しました。 (概要) 絹本、高さ35.6cm,長さ1152。8cm 1736年(乾隆元年)12月15日完成

ISBN4-89446-747-X C1871 この絵巻物に惹かれたのは、当時(北宋時代)の都の有り様が克明に描写されている事です、人物、動物、建物、・・・・・・・CD ROMではこれらの詳細について、絵巻物を楽しみながら検索できるようにしました。できる限り、中国の人々の気持ちを伝えたいと思いました。 CD ROM 清明上河図

 この絵巻物は北宋の時代より日本にも影響し、数々の繁栄した都の模様を細密画で描くようになりました。 撮影秘話としては、この巻物は保存の為に何人たりとも巻物を開く事は許されません、今回の出版にあたり初めて撮影が許され、巻物を開く時に1回、巻き戻す時に1回と2回の撮影が許されました。故宮が誇る至宝中の至宝です、台北故宮での発表会への出席、日本での発表会と燃えていました。

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月岡貞夫さんとの出会い

今日本のアニメは世界の最高峰にあると思うし、ビジネスでも成功を
収めています。

私が7~8年前に”ガメラⅡレギオン襲来”のプロヂュサ
の一人として参画させて頂いた頃に、月岡さんと出会いました。彼は
当時、富士通のパソコンのCM”タッチオジサン”のアニメを製作されておられた頃だと思います。

東アジアの民話を何とかテレビ番組出来ないかと東奔西走していた頃です。取材の為に台湾、フィリピンを訪問
し、各地の伝説を収集していました。

例えば、かぐや姫の物語は日本と同じようにフィリピンで見つけましたが、竹の太さが1mはあろうかと
いう太さで、なるほど、こないに太い竹なら子供は生まれると感心した思い出があります。

さて、月岡さんの話でした、先生は若い頃に上京し手塚さんの漫画をアニメ化する志で門を叩かれました。
稀有な才能は”狼少年ケン”を全て制作、統括されその才能が衆目を浴びました。その後、数多くの有名な作品を世に出されアニメの井戸を掘った人として、東映動画の基礎を作られました。

漫画は手塚さん、アニメは月岡さんこれが私の印象です。

その後、私の好きな宮崎さんとか、多くのアニメの巨匠ガ輩出されました。私が月岡さんに意見を伺い指導を受けようとしたのは、コンピュタでアニメを自動生成出来ないか?その頃米国では人間の身体にセンサをつけて点の動きをトレスして3次元でシュミレションする方法でした。


月岡さんは”駄目だ!アニメは人間とか自然界の物を其のまま
真似してもアニメにならない!” 動きの誇張が必要!その他
諸々朝方まで説教をされた思い出があります。

残念ながら先生とは御一緒に作品を世の中に出すことが出来ませんでしたが
常に、子供達の教育について熱い思いのある人でした。今は
東京工芸大学の教授をされておられるし、当時は日大の芸術
学部で教えておられました。

月岡さんと世の中に出したかった作品は2点です。最初は、東アジアの民話のアニメテレビ番組です。テレビ局、代理店さん、ビデイオ販売会社さん、出版会社さん、皆様と最後に契約近くまで漕ぎ付けましたが、残念ながら実現に至りませんでした。

アジアの民話には、各民族の悲しい抵抗の歴史が隠されているのです。将来、又、機会があれば挑戦したい課題なのです。

二番目は、”雷親爺と息子”です。これは、雲の上に住む、雷親爺と息子が織り成す、楽しい話です。二人が、毎回の東アジアの民話が始まる前に、イントロを行う構想でした。雲の上から各地の民話のイントロを紹介して、その国に降りてゆく、そんな趣向でした。絵コンテまで、出来ていたんですが、実現せず残念でした。


先生の作品で私が一番好きなのは
NHKさんの”みんなのうた”での”北風小僧の寒太郎”のアニメ
です。素晴らしい目の澄んだ先輩です。

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