六本木のIZUMI オーナー隠居

 六本木のライブJAZZバーとして随分とお世話になったオーナー、吉井さん御夫婦が39年間のお店を引退され、北海道に転居された。

六本木 IZUMI(ジャズバー)の思い出

 札幌から車で20分程度離れた郊外に隠居されたようだ。懐かしいメールが届きました。そういえば、閉店の挨拶が来ており、何とか顔をだそうと考えていたが、それも叶わないでいた。大変失礼な事をしたものだ。

 吉井さん御夫婦との出会いは、確か1986年か87年の頃に米国駐在を終えて帰国し先輩の小野部長に連れられて伺ったのが初めてだと思う。その後、深夜によくお邪魔して朝方近くにタクシーで帰宅した記憶が多いですね。

 とても、優しい御夫婦で生き馬の目を抜く六本木で異色のオアシスのようなお店でした。このような、素晴らしい人々が引退される歳になりました。そういえば、自由が丘の素晴らしい酒場のオーナーが引退されてゆく。これも、私が歳をとったせいかもしれない。

 吉井さん御夫婦の北海道での第二の人生に幸あれとエールを送りたい。

追伸

 六本木”IZUMI”新しいホームページ開設

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ダウンタウンヒーローズ 映画

2005_011600042005_011600032005_01160002この映画は同僚の梶山君が私に贈呈してくれました。映画のカタログとビデイオです。私はこの映画のような世界が青春の理想でした。旧制高校のバンカラな世界を経験してみたかった。

”ダウンタウンヒーローズ” 山田洋次監督作品、原作 早坂暁 松竹映画

キャスト
中原房子ー薬師丸ひろ子 志麻浩介ー中村橋之助 オンケルー柳葉敏郎
アルルー尾美としのり ガンー杉本哲太 ホルタンー武野功雄
炊事委員ー黒崎輝(家内のいとこ) チョビンスキーー坂上忍 谷口咲子ー石田えり
ドイツ語教師ー米倉斉加年 国文学教師ーすまけい 警察署長ー加藤武
正岡公子ー樫山文枝 喫茶店マダムー淡路恵子 心理学教師ー田村隆一
校長ー久里洋二 志麻民子ー倍賞千恵子 春之助ー渥美清

”監督の言葉” 山田洋次氏語る

”こんなことで、青春を終われるか!”そんな、憤りも、激しい空腹でかき消されてしまう、何もない時代だった。
しかし、奇妙な開放感と、自由があったことだけは、しっかり記憶に焼きついている。
日本にとっても、つかのまの青春ー貴重な時代だったのではないだろうか。
旧制高校という枠にとらわれず、全員ヤングのグラフィテイをーー一度は撮るぞと思っていた夢がかなって、少し気負っています。

感想

日本が敗戦の焼け野原からやっと立ち直りかけようとしていた、昭和23年に学制改革により旧制高校が新制大学へと改編される前年のこと、最後の旧制高校生となった若者達を描いている。

松山高校の寮生活者達の奔放な生活ぶりが面白い。若者は空腹ではあるが、自由をかみしめ、精一杯に青春を謳歌している姿が美しい。

脇役を山田洋次ファミリーががっちり押さえ、オンケル役のギバちゃん、主人公の橋之助、マドンナの薬師丸を支えている素晴らしい映画に出来上がっている。

私の過ごしたワンゲル時代も多少は未だ、このような風潮が残っていた。時代は大学紛争の真っ只中ではあったが、映画で描かれている寮生活とかファイアーストームなどは、受け継がれていた。大学祭での劇がこの映画のクライマックスであるが、私達は四季おりおりの山行の合宿の終わりに行われる、ファイヤーを囲んでのスタンツと同じである。

この映画は自分の青春とダブリ何度観ても涙が出て来ます。素晴らしい映画であり、山田監督と原作の早坂さんには感謝したい。

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山田先生との対談

ハーバードビジネスレビュー 1月号が発売された。

僭越ながら理科大学経営学部大学院 教授の山田先生と私の対談が掲載されました。140ページ141ページ。

(山田先生との出会い)

私が、1982の1月に米国に赴任して、2ヶ月後の事です。会社のボスである中原天皇(当時はそう呼んでいました)が米国に出張に来られる。私は、アテンドのためにシカゴに飛びました。真冬のシカゴです、五大湖からの寒風は吹きすさぶオーヘヤー空港に着き、待ち合わせのホテルに向かう。

二人の紳士がおられた、一人は中原親分でもう一人が、ニューヨークから駆けつけて下さいました、日本開発銀行の山田さんでした。これが、山田文道先生との出会いです。

(シカゴの銀行に行く)

いきなり、中原さんは私に通訳をやれと命令される。私は、米国駐在して2ヶ月しか経過していない、判る英語はアマチュア無線の英語しか判らない。相手は、100程喋るが私は1~2しか判らない。しかも金融に関する専門用語である。わからん。それでも、一言二言通訳?する。

中原さん、何か相手はもっと何か言ってるんと違うか?と、質問される。私は判らない。チンプンカンプンである。
冷や汗がだんだん流れてくる。

山田さんは、にこにこしてこちらを見ておられる。

あとで、判明したが、山田さんは開発銀行の人である、専門である。しかし、富士通の会社の若い人間が上司と仕事をしている、介入するのを憚れた。

(富士通総研社長となる)

その後、中原さんは年に2~3回は米国に来られる、私は。通訳をやらされた。飛行機はパンナム、酒はJB,料理は中華のスペアリブ、ホンマ往生した。しかし、毎回、私の英語力が上達してるかを、定点観測されていた。決して私の英語が関西弁であるとか、わけの判らん吉本風であるとか、批判はしない。ジット我慢されていた。

そのうち、山田さんは富士通総研の初代社長として来られた。多くの社員をその後、大学の教授として送り出され、本人も10年間社長を務め、理科大学の大学院の日本の統計学の権威である、奥野教授に招聘され教授として赴任された。

(門下生となる)

鎌倉さんが座長で山田塾を理科大学で開催している、私も6年前に生徒として入門を許された。丁度、私が神戸大学の経営学部の非常勤をしている頃である。山田先生の大学院の生徒の修士論文の批判と、奥野先生のご意見を伺う勉強会と宴会が続いた。

私は本当の教育は教室であるとは、思わない。塾である。山田先生はもう70歳を超えている、しかし、今でも年に何回も海外の辺境にでかけ、又、スキューバで海に潜られる。

或るときは、モンゴルの草原に立ち、中東の戦火に出かけ、秘境に行かれる、流石に坊主の息子であると思う。怖いものがない。

そんな、人生を教えいただいている、先生との生意気な対談である。穴があれば入りたい。

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