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第11回 三輪山セミナー・イン東京(2014年8月23日) 感想

承前 三輪山セミナー 講演録

 今回も三島在住の会社の同期の浦川さんと一緒に参加した。講演の後、同じく同期の五 十嵐さんも合流して宴会となった。
 

 講師は藤原茂樹(慶応教授)さんが『椿は王の木』というテーマで話され、石野博信(兵庫県立考古博物館館長)さんは『邪馬台国時代・纏向王宮への道のり』というテーマで話された。

 石野さんの話は特に珍しい話も無く、感想はありません。藤原さんは古代国文学が専門とかで、私には馴染みがない万葉集の話は新鮮でした。特に、昔から三輪山山麓に海石榴市(椿市)という大きな市が存在し、何故、その名前が海石榴市(椿市)と呼ばれていたのかその理由を知りたかった。今回の話で理解できたわけでは無いが、私の感想を記録しておきます。

 1.海石榴市と椿市
  ・3世紀の頃から4世紀にかけて大和盆地の交通の要は三輪山山麓にありました。古代の輸送路は海と河川です、河内湖から大和川を遡上すると初瀬川となり三輪山南麓に辿り着きます。その前に枝分かれで三輪山北の巻向川となる。陸路では山の辺の道を北上すると木津川に至り桂川や宇治川を経由し山背の国、琵琶湖を経由し日本海への海上ルートが開いています。淀川を経由すると瀬戸内海へ通じている。

   陸路でも三輪山山麓は交通の巷であり伊賀・伊勢方面に道が通じ、又、河内への道や紀伊への道、熊野への道も通じていた。
   ヤマト王権が誕生した理由はこの交通網の要が重要な要素と考えられている。考古学的にも初期の巨大前方後円墳は山の辺の道に沿って北から大和(おおやまと)古墳群、柳本古墳群、纏向古墳群、桜井茶臼山古墳と存在している。

   そこで、何故、市の名前が海石榴市即ち椿市と呼ばれていたのでしょうか。椿という漢字は和製だそうです、中国では何故か海石榴(つばき)と表記され海から渡来した石榴(ざくろ)だそうです。中国の北方では馴染みの無い木であり花でした。
   日本列島は照葉樹林文化と呼ばれ長江流域から琉球弧を通過し日本列島の東は関東地域ををカバーする気候帯だそうですね。

   椿はこの照葉樹林文化を代表する植物だそうです。年中葉が繁り、葉は太陽を反射し、美しい大きな花を咲かせ、実から上質な椿油が採取される。椿の灰は古代の紫を染色する時に使用され、又、日本酒を醸造する過程で灰は使用されたそうだ。
   今でも神事と関係が深いお相撲さんは椿油を髪に使用しています。お相撲さんは出雲の土師氏の祖でもありますね。
   古墳時代の埴輪からは沢山のお相撲さんの姿を見ることが出来ます、今城塚古墳の埴輪群では神事と関係が深い事を推測
   させます。

   『紫は灰さすものそ 椿市の 八十の巷に 逢へる児や誰』

  
   問答歌だそうですが、通りすがりの男が、高貴な色である紫のような美人に出会いナンパする場面です。女性は相手の素性も判らない男に本名を告げる事は出来ませんと答えます。歌垣の場所だったようですし、椿が当時の人々にとり特別な神聖な樹木であったようです。
 2.東北まで広まった椿
  ・藤原さんの話では弥生文化が関東地方や東北地域まで勢力を拡大する過程でこの椿を持参し上陸した湊の丘や重要な場所に移植したそうです。本来北緯40度以北では自然に椿は広がらないそうですが、人の手で移植され小さな群落を形成している場所が多く、東北に存在するそうです。

   例えば、宮城県本吉郡椿島、唐桑半島権現者、由利郡三崎坂、南秋田群男鹿半島椿浦、青森県境の椿村、西津軽郡の深浦、
   青森湾の底、小湊半島の東側、椿明神、東北6県の海辺や岬の端に椿が人工的に移植された痕跡が存在する。
  

 3.常若思想
  ・考えてみると、神さんに捧げる『さかき』も常緑照葉樹ですね。昔は1種類ではなく南海から移植した熱帯性の木で楠木系のタブだったそうです。宮脇昭さんの話では『ヤブツバキクラス』と定義される植物相が南方から日本列島の関東地域まで連なっているそうです。照葉樹林文化圏と呼ばれる植物相を『ヤブツバキクラス』と呼ぶようです。

   1年中、葉っぱが青く、光り輝く植物は常若思想を具現化したものと人々は考えたのでしょうね。
  ・実は、私がこの数年野鳥を観察している大倉山は縄文時代からの遺蹟や古墳が存在する場所でして、やたらと椿の種類も多く
   馬酔木も存在する場所に気がついていました。

   縄文海進時代に古鶴見湾に突き出した太尾尾根の上に大倉山は存在し近くに熊野神社の縄文貝塚遺蹟も存在し、大倉山記念館を建設する時に大規模な遺蹟発掘が行われた。大きな古墳群が存在していました。やはり、此処は古代に海人達が船で上陸した場所であり聖なる椿の樹が移植された、聖なる場所と考えると、納得がゆきます。

   公園を歩いていると、古墳時代の石室の石が今も階段の場所で見受けられます。

   椿、さかき、馬酔木、そして、葬式で今も使用するシキビ(関西ではこう呼びますが、関東ではシキミ、サシブと呼びますかね)も神聖な樹木だと思います。

   アンコ椿は恋の花、この歌も意外と三輪王朝時代の歌垣(恋の巷)を踏まえた歌なのかも知れないですね。

 参考 日本古代史と椿の関係(2013年12月23日)

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