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諏訪大社と諏訪の古代史(1) 尖石縄文考古館と神長官守矢史料館

 本日、JoBlogは260万アクセス、最近の画像を収録するブログが10万アクセスとなり合計270万アクセスを達成したようです。2004年4月からこのブログを開始し9年も経過したようです。もうこのブログにも容量が無くなり、一向にブログの容量拡大をしてくれないので、何処かでブログを止める事になるかも知れません。今の時代、10ギガなんて直ぐにオーバーしますね、10テラにして欲しいです。さて、270万アクセス記念記事は諏訪大社と諏訪の古代史を採りあげてみます。

 1.縄文時代から諏訪大社が出来るまで

 諏訪大社は御柱祭で有名ですが、縄文時代より諏訪湖の豊かな自然に恵まれ人々が古来自然とともに営んで来た場所を代表する社でした。

 尖石縄文考古館を訪れると、縄文中期から縄文後期前半に繁栄した人々の暮らしの断片を知る事が出来ます。特に縄文中期の棚畑遺跡から1986年に出土した土偶、国宝『縄文のヴィーナス』は有名です。豊かな妊婦を形象した像と考えられているが、縄文中期の豊かな人々の暮らしを想起させます。

 この土偶とは三回目の対面でした、二度目の対面は大英博物館での縄文土偶展でした。この土偶と非常によく似た土偶をフランスの博物館かウイーンの博物館で観た記憶があります。場所は異なるが、同じような時代に人々は同じような事を考えていたのだと思った記憶があります。

  又、縄文後期前半の遺跡である中ッ原遺跡から出土した土偶、重文『仮面の女神』も有名です。長さ34㌢、重さ2.7㌔もあります、中は空洞です。そして、その後は寒冷化が進み人々は諏訪から去って行ったようでした。

 参考 尖石縄文考古館 写真

 2.神長官(じんちょうかん)守矢史料館

 ヤマト王権が出雲に建御雷神(たけいかづちのかみ)を派遣し大国主神に国譲りを強要した事件がありました。その時に大国主神の息子の建御名方神(たけみなかたのかみ)は国譲りに同意せず、ヤマトと戦いますが、敗走しお母さんの故郷である糸魚川、姫川の翡翠の里を経由し姫川を遡上し諏訪に辿り着いたのです。彼のお母さんは大国主神と結ばれた姫川の翡翠の女王、沼河比売(ぬなかわひめ)で幾多の伝承を残した女性です。

 建御名方神が諏訪に侵攻する時に諏訪の土着の勢力と天竜川で戦いが起こりました。土着の豪族がこの史料館の神長官守矢氏だったのです。土着の豪族は戦いに敗れますが、出雲の建御名方神と妃の八坂刀売神(やさか とめのかみ)を祭神として祭り、神官は土豪の呪術を担当し諏訪を縄文時代から治めて来た、守矢氏が担当する事に落ち着いたという。

 この土豪の守矢氏は諏訪神社上社の神長官(じんちょうかん)として君臨し祭祀を取り仕切り76代まで継続し明治政府の国家神道の政策により神長官を退くのです。

 出雲が諏訪に侵攻す以前の神は神長官守矢家の裏山である守屋山を御神体とする『ミシャクジ』神でした。東日本の古代に多く見られる信仰であり縄文時代まで遡る可能性があるようです。山から神を降臨させる場所が守屋家の裏庭にある『ミシャクジ』社と社叢です。写真に収録しておきましたので、御参考下さい。

 この守屋氏は諏訪大社上社の祭祀を明治の頃まで延々と牛耳る事になります。大祝(はうり)は諏訪氏ですが、神の一族として祭りあげ、現場は守矢氏が神長官として牛耳るのです。

 御頭祭

 諏訪大社上社で旧暦で3月の酉の日に行われた祭祀が『御頭祭』と呼ばれる奇祭の祭壇が史料館で展示されていた。昔は諏訪上社前宮十間廊で行われていた祭祀であり、鹿の首75頭を生贄として捧げたそうだ。

江戸中期、此の地を訪問したのが菅江真澄という人が記録とスケッチを残したのを、史料館では復元している。

 驚きは米を納めた樽にウサギを串刺しにして立ててある光景です。鹿や猪の焼き肉や生肉、煮た肉、脳味噌会えと、肉のオンパレードでした。江戸時代でも諏訪上社は肉を食べてよい許可書を人々に配っていたようです。

 問題は小さな生贄の柱でした、噂では8歳の男の子を神の使いとして神官とし、1~2年で役目が終わると生贄として殺害されたという伝承があるようです。実際、史料館ではその子供の生贄の柱が展示してありました。

  古来、江戸時代でも橋を建設する時に生贄を柱にくくりつけて埋めたという話が伝承されているし、ヤマトタケルのオトタチバナヒメも海を鎮める為に海に身を投じている。海人族には航海の時に持衰(じさい)と呼ばれる人が乗り込んでおり、髭も伸び放題、ひたすら自己犠牲を行う人を乗せます、航海が失敗するとこの持衰は殺されたそうです。

 鹿の首を奉納する祭祀は私が安曇族のルーツである志賀海神社を訪問した時に鹿の角を納めた倉庫を観た記憶があります、六角堂(鹿角堂)。応神天皇のお母さん=神功皇后が確か鹿の角を納めたという記録があると聞きました。

 過去記事 志賀海神社その4(リンクを辿ればその1まで辿れます)

 安曇族という海人のルーツは隼人まで遡る事が出来るとおもいます、大隅隼人・阿多隼人は北上し志賀島を中心に大陸との交易で栄えましたが、その後は日本列島の津々浦々に勢力圏を広げた。出雲と一緒になり越の国にも日本海沿岸航路を開いた。

この安曇族の信仰に鹿の生贄と人間の生贄をとり行う風習が存在したのか興味があるところです。

 卑弥呼が突然に死んだ時も巫女としての役目を終え、当時の信仰により神官として生贄にされたと解釈する事も出来るかも知れません。

 マイフォト 神長官守矢史料館 写真

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