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壱岐紀行(2) 横穴式石室古墳群

 承前 壱岐紀行(1) 宗像大社(辺津宮)

  壱岐の横穴式石室古墳

 壱岐には6世紀末から7世紀にかけての約100年間に建造されたとする、260基に及ぶ横穴式石室を持つ古墳群が存在する。

鬼の窟古墳、兵瀬古墳、百田頭古墳、双六古墳、笹塚古墳、百合畑古墳群、掛木古墳、等々、壱岐の中央部に集中して建造されている。 

 参考 壱岐横穴式石室古墳群

 私は鬼の窟古墳を見学したが、壱岐の横穴式石室の古墳群は殆ど同じ構造で建造されているらしい。時代は朝鮮半島が動乱期に突入した継体天皇の時代が終わった頃から欽明天皇そして、それに継続する朝鮮半島動乱期の時代である。高句麗の南下と百済、新羅が対立する時代である。7世紀中葉に高句麗が滅亡するがその頃までの時代である。

 壱岐に宿泊した時にたまたま、夜、テレビを観ると壱岐のケーブルテレビで一支国博物館で開催された壱岐学講座の番組が再放送されており、面白く学ぶ事が出来た。

1.壱岐の横穴式石室古墳

蔵冨士寛氏が講演を行っていた。彼は九州の装飾古墳の専門家でもあるようですが、限られた100年間に建造された横穴式石室の分析が面白く語られていた。九州にもない、畿内にもない独特の横穴式石室が何故建造されたのか、そして、被葬者はどういう人だろうか。この考古学者は文献をもとに古代史を研究する歴史学者を刑事と呼び、考古遺物を扱う考古学者を鑑識と例えており、面白い発想だと思った。

2.壱岐の横穴式石室の特徴

横穴の一番奥に石室を安置する玄室が存在し、その部屋を閉じるように、袖石と呼ばれる大きな石が両側から迫る。そして、羨道には複数の部屋が袖石で区切られた部屋が存在する。玄室の次の部屋は祭祀を行った部屋だと考えられ、その次の部屋はお供え物を捧げた部屋かもしれない。幾つかの部屋が直列に存在し、部屋は袖石で区切られている。天井は大きな平たい石で覆われほぼ水平に横穴の天井は建造されている。古い時代程、天井の高さは高いそうです。玄室には九州の古墳には存在しない、近畿のような石棺が存在する。多くは組み立て式石棺のようですが、北部九州には存在しない石棺が使用されている。

蔵冨士さんの話では、北部九州では玄室に遺体を直接安置する葬送儀礼だそうです。だから、袖石で玄室を密閉する構造をとるそうです。装飾古墳の発達もこの遺体を直接玄室に安置するところから生れたそうです。まさに、イザナギがイザナミの腐乱死体を観て逃げる場面は北部九州の横穴式石室を連想させる描写である。畿内の横穴式石室では玄室に石棺の中に遺体を埋葬するので見えない筈です。

3.壱岐の特徴を持つ他の地域

蔵冨士さんの研究によれば、壱岐と似た横穴式石室を持つ地域として、三カ所を掲げていました。

先ずは『肥の国』、そして、『紀の国』、三番目に徳島県の吉野川流域の古墳群だそうです。

継体天皇の時代に『磐井戦争』がありました、北部九州を連合した筑紫の君はヤマト王権と戦争し敗退した。そして、代償として磐井の息子の葛子がヤマト王権に粕屋の屯倉を献上しました。博多湾の交易路を献上したのです。

4.結論

朝鮮半島の政治情勢が緊迫化し、高句麗の南下と百済、新羅、任那の抗争という激動の時代に継体天皇は九州の筑紫君である磐井に強大な権力を授け、朝鮮半島情勢に対応しようしたが、失敗し、磐井と戦争状態となった。北部九州は敗戦により権力を失い、壱岐から唐津湊そして、肥の国に通じる海のルートが活発化した。継体天皇の棺が阿蘇ピンク石であり、九州から瀬戸内海を経由して三島まで運ばれた事も思い出す。

肥の国・徳島の吉野川・紀の国の紀の川、彼らは海の民である。この系列の人々が壱岐を大陸貿易拠点として勢力を築いたと推測出来る。

  参考 マイフォト 鬼の窟古墳

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