『呪の思想 神と人との間』白川静・梅原猛対談集メモ
白川静さん、梅原猛さんともに立命館で研究をされた仲である。この二人の巨匠が対談した貴重な資料が本となり平凡社から出版されていた。私が特に興味が魅かれた部分のメモを残しておきたい。中国の歴史を語る人はこの本を是非、一度は読まれる事を推奨する。
・中国古代の民族移動
夏王朝が起こる以前に長江中流域に「南(なん)」と呼ばれる人々が高い文化を築いていた。苗族(びょうぞく)はその一つであるが、彼らは北方モンゴル系統で北方から湖南地方まで南下していた。これが中国では一番古い民族移動である。これを、考古学的には『屈家嶺文化』と呼びます。
この文明は長江中流域、湖北省の屈家嶺遺跡を標準とする新石器文化であり、虹色の焼土塊の表面に籾痕がみられ、水稲中心の農業の存在が認められた。(稲作発祥)
中国神話は殆どこの苗族から出現しており、「伏羲・女媧」も苗族の神であった。
夏王朝とは
紀元前21世紀~17世紀に存在した古代王朝であるが、民族的には西の遊牧民が東に移動し建国した。考古学的には仰韶(ぎょうしょう)文化、彩陶文化と呼ばれる。黄河中流域で起こり土器に彩色した幾何学文・植物文・動物文を施す。
殷王朝とは
夏王朝が西から東に民族移動した西方遊牧民が建国したとすれば、夏王朝を倒したのは東の山東半島あたりにいた海洋系の民族が西に民族移動し陝西省あたりまで押し寄せて建国した。考古学的には龍山(りゅうざん)文化、黒陶文化と呼ばれている。そして、殷王朝のあと、西の遊牧民が東に移動し周王朝を建国した。
・玉の文化(琮そう、璧へき、鉞えつ)
良渚遺跡からは青銅器文明の前に素晴らしい玉文明が存在していたと推測される、玉の遺物が出土している。
琮とは、腕輪ですが、時とともに大地を祀る祭器となりました。
写真参考 琮写真
璧とは、玉で出来た円盤状のもので真中に円孔がある。祭器と考えられる。
写真参考 璧写真
鉞とは、王の儀器として軍事的価値を占める。
写真参考 鉞写真 王という漢字はこの形から生まれた
・青銅器は本来呪鎮(じゅちん)だった
白川さんの話では青銅器は本来、『呪鎮』であったと述べている。
殷の青銅器で『鐃(どう)』というのがある、大きな釣鐘の形をしたもので、それを逆さまして地中に埋める。口を上にして江南の地に埋めてあるという。これは他から出ない、墓からも出ない、全部地下からしかでない。
揚子江を渡った、要所要所に70㌔もする大きな鐃を埋め、南方族に対する呪鎮であったと考えられる。
之に対抗して、南方族は『銅鼓(どうこ)』で対抗した。此れは、本来は楽器であるが、音が遠方までよく届くそうだ。これも祭器となり、土に埋めて呪鎮とした。
白川さんは日本の銅鐸も呪鎮であったと述べています。山の斜面に敵との境界線に埋め、呪鎮としたと考える。
参考 ベトナム民族学博物館
呪鎮としての青銅器には霊的な威力を与えるように、特殊な霊的な模様が発明された。
饕餮(とうてつ)文、虺龍(きりゅう)文、夔鳳(きほう)文という霊獣の模様が発明された。
白川さんは饕餮(とうてつ)文は虎の両開きに展開した形であると述べる。そして、饕餮という言葉が苗族の言葉では「於兎(おと)」即ち虎を意味するらしいです。
鄭州(ていしゅう)の二里岡(にりこう)の銅器が中国で一番古いと語られています。(殷の中期)
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