古代河川交通で栄えた湊(4) 処女塚古墳と五色塚古墳
前回は大阪平野の拠点湊についてご紹介しましたが、今回は湊のランドマークタワーと考えられる前方後円墳を紹介します。仁徳さんが超巨大な大山古墳(伝、仁徳天皇陵)を百舌鳥の地に建設しましたが、彼は住吉津を南北に拡大大工事をして、難波津に対抗したからだと、前回ご紹介しました。(当時、難波津は菟道稚郎子を支える豪族が支配していた)
余談:最近、MuBlogで大阪城は古代の古墳の上に建造されていたという噂が紹介されていたのが、気になりますが、多分、菟道稚郎子を支えていた和珥氏、大伴氏、紀氏あたりの豪族が難波津に建設したランドマークではなかったではないだろうか。
百舌鳥には森浩一さんの話では、石津という重要な古代の湊がありランドマークとして乳岡古墳があるそうです。今では前方部を失っているが、長さ150㍍の前方後円墳であり、古式の長持形石棺に碧玉製腕飾類が副葬されていた、前期後半の古墳だそうだ。
・万葉集に歌われた海運と関係が深い古墳群
大伴家持、田辺福麻呂、高橋連虫麻呂ら万葉の歌人が歌にした葦屋の処女塚(おとめづか)があります。東灘区にある全長69㍍の前方後方墳が処女塚と考えられています。一人の娘を二人の男が競い合い、不幸にも三人とも自殺したという悲恋物語です。この前方部を海に向けた処女塚を挟んで東西に古墳が存在しています。西求女塚(にし もとめづか)全長90㍍古墳の前方部は東の処女塚を向き、東求女塚(ひがし もとめづか)全長80㍍の古墳は前方部を西の処女塚を向いています。
海を行き交う万葉人はこの3個の古墳を眺める事で、古墳の形態からこんなロマンチックな物語をランドマーク(古墳群)に被せてしまったのではないかという話です。海岸線に存在する古墳群が如何に船で航行する人々に目立っていたかという話です。
西求女塚は古代の良港、敏馬(みめめ)の浦にあるそうです。小さいながらも、潟状に入り組んだ港だったそうだ。新羅からの使者が来ると饗応したのが敏馬(敏売)崎であり、大和田泊とともに重要な港だったようです。
・明石海峡の五色塚
明石海峡を見下ろす海岸沿いの丘陵には兵庫県最大の前方後円墳(197㍍)である五色塚古墳があります。海上から眺めが良いランドマークとなっています。
この古墳は仲哀天皇が九州で急死した時に、応神さんの異母兄にあたる麤坂王(かごさかおう)と忍熊王(おしくまおう)が応神さんとお母さんの神功皇后がヤマトに瀬戸内海航路で帰還する時に戦争目的で仲哀天皇の陵を建設しているという名目で迎え撃つ拠点にした場所と言われている。淡路島から膨大な葺石を運んだようです。
五色塚は瀬戸内海を東進してくる軍団を迎え撃つ要害の場所でした。葺石の総重量は2750㌧にもなるそうですが、光り輝くランドマークだったようです。
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