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『ヤマト』は穴磯邑の大市の長岡岬

 承前 倭の六県

 承前 山口の六神

 『ヤマト』を探る場所を奈良盆地で探して来ました、前回は伊達宗泰氏の説をご紹介しましたが、今回は千田稔氏の説をご紹介します。典拠は、『古代「おおやまと」を探る おおやまとの宗教的環境』 千田稔 学生社2000年10月の論文を参考にしました。

 ・倭大国魂神(やまとの おおくに みたまのかみ)

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 『日本書紀』の崇神天皇条と垂仁天皇25年3月10日条に倭大国魂神に関する記事が掲載されています。それによれば、穴磯邑(あなしのむら)に定めて大市の長岡岬に渟名城(ぬなき)稚姫(わかひめ)命(みこと)に祀らせたとあります。千田さんの話では穴磯とは今では穴師という地名が残っていますが、巻向山を源流とする纏向川のほとりを指します。長岡岬とは現在の長岳寺が存在するあたりは昔、長岡村とよばれていたそうです。岬とは ミ+サキ=神のとりつく先 という意味だと解釈しています。

 大市は城上郡(しきの かみぐん)大市郷ですから現在の箸墓のある場所付近を指します。ですから穴磯邑とは邑=都 随分と大きな地域を指していた事になります。長岳寺と穴師の距離は南北3㌔、そして箸墓も含みますから桜井市穴師から天理市柳本町の長岳寺を含み尚且つ、大都市を示す大市の箸墓付近も含む広大な地域を指していたと考えられる。

 ・穴磯こそ「おおやまと」の中心

 穴磯に倭大国魂神が祭祀されたという事はこの場所が巻向山から流れ出る纏向川により形成された扇状地というか、幾筋も流れる纏向川の川に挟まれた聖なる場所です。そう考えると、「おおやまと」とは三輪山とは関係が薄く、その北側に連なる山々、とりわけ巻向山を中心とする信仰地域であった可能性が高くなる。

 ・巻向山と纏向川

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 古代の地域は一定の河川の水支配地から読み解こうとする考えがあります。水支配は政治的領域と考えて良いと考えられる。武久義彦氏が復元した纏向川周辺の旧河道があります、グーグルで概略示しましたが、幾筋もの川が東から西に流れまるで網の目のようです。そして、大和川本流(初瀬川)に流れ込む訳です。纏向遺跡はこのような場所に展開していた訳です。

 ・兵主(ひょうず)とアメノヒボコ

 纏向川の源流は巻向山になります、この山の頂上には昔、兵主神社(上社)が存在したそうです。今は麓の下社が大兵主神社となっています。この神社が「おおやまと」を解く鍵を握る事となります。しかし、兵主の神とは司馬遷の『史記』に書かれた山東半島の八神の一つという程度しか判っていない。壱岐・丹波・三河・近江・大和・但馬・播磨・和泉の諸国に式内社とあるそうだ。何故、『記紀』にこの兵主神が記録されなかったか、謎である。

 千田さんは此処で大胆な兵主神とはアメノヒボコではないかという大胆な仮説を述べています。その根拠は二点あります、一点は『釈日本紀』で応永29年(1422年)の「大倭神社注進状」の裏書に上社の神体は「日矛」であると書かれている事、そして二点目は『播磨国風土記』のアメノヒボコ伝承と兵主神社の分布が重なる事である。兵主とは兵器の制作を司る神の事であり、「ヒボコ」の「矛」も兵器であり関連性があると考えられる。

 

 ・アメノヒボコと鏡

 『古事記』の応神天皇段にアメノヒボコが将来した物に「奥津鏡(おきつかがみ)」と「辺津鏡(へつかがみ)」があります。同じ呼び方をする鏡が京都府宮津市の籠(この)神社に所蔵されています。息津鏡(おきつかがみ)と称されているものは、「長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)」であり、辺津鏡は「内行花文昭明鏡」だそうです。前者は後漢、後者は前漢の制作の漢鏡だそうです。

 息津鏡にあてられている鏡は弥生Ⅴ期の初期に瀬戸内海から畿内にかけて多数分布するもので、北九州から畿内、瀬戸内海に鉄器が普及し石器が急激に減少する時期にあたるそうだ。

 ・アメノヒボコの侵攻

 日本書紀では垂仁天皇の時代として播磨国から宇治川を遡り近江国の吾名邑に入り、そして若狭国を経由して但馬国に定住したと記録、一方、『古事記』では応神天皇の時代として彼は新羅から逃げた日本人妻のアカルヒメを追いかけて瀬戸内海から難波に入ろうとしたが、在地の豪族に阻まれ但馬国に定住したとする。

彼は播磨国でも在地のイワ神との間で土地紛争を起こしている。又、アシハラシコオとも戦争をしている。即ち、アメノヒボコ集団は渡来系であり侵攻先の土着の出雲系の人々との戦争を記録したものだと考えられる。

 鉄器を携えた渡来系の侵攻集団と列島内の出雲系の土着民との戦争は「魏志倭人伝」で述べる「倭国の乱」を記録しているのではないだろうか。即ち『後漢書』の恒帝(かんてい)と霊帝(れいてい)の間、148年~188年の出来ごとではないだろうか。

 次に継続する・・・・・・

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