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鏡王朝(仮説)に思う

 承前 青銅器王朝から鏡王朝への変革

 千田稔さんの大胆な仮説を少し考えてみたいと思います。

 三輪山を大物主とする出雲系の人々が暮らしていた奈良盆地に鉄器を引っ提げた渡来系の人々、即ちアメノヒボコ集団が侵入し銅鐸・銅剣・銅矛祭祀の神々を破壊し巻向山の兵主神を祀る人々が鏡王朝を纏向川扇状地に建設した。それが、卑弥呼を担いだ邪馬台国であり、その後、「おおやまと」に巨大古墳群を建造したヤマト王権に継続したとの説でした。

 箸墓古墳に残る伝説、三輪山の大物主さんに嫁いだヤマトトトビモモソヒメは明らかに、大物主さんの系統ではない、即ち出雲族ではなさそうです。何故なら、旦那の正体を知らなかったからです。という事は、箸墓に埋葬された姫はこの地に侵入した新しいグループの姫さんとなります。

 鏡というと、中国江南の『越』呉音でオチ、漢音でエツだったと記憶しているが、鏡の本場です。森浩一さんの『山野河海の列島史ー越で流行した三角縁画像鏡』朝日選書(2004年2月)によれば、初期古墳から発掘される三角縁神獣鏡は『越』から渡来した鏡工人が日本列島で製造したものと説明しています。

 鏡が好きな集団の背景には江南に住む倭人(海人)という事が言えるでしょうね。又、魏志倭人伝に描かれた鯨面=刺青の顔、これも江南の海人の風俗です。古墳に祭られた埴輪の顔は多くが刺青の顔でしたね。銅鐸時代が終わり、古墳時代が始まると初期は鏡中心の埋葬になり、4世紀末頃から武器や馬具が埋葬されるようになり、この時にも王朝が変革したと考えられている。遊牧民の風習が伝播(河内王朝の成立)

 所で、神武天皇の伝説ではヤマトを制圧した時に奥さんは三島に住む大物主の姫さん=ヒメ タタラ イスズヒメを撰んでヤマトを治めた事になっています。男王が侵入した時は神武さんのような形態をとるのが普通に考えるが、巫女さんを嫁がせる考えは昔から不思議な話だと疑問だった。この背景には三輪山祭祀権を獲得する為にはこのような侵略者の統治法があったのかも知れない。

 三輪山の西、纏向地区には出雲庄が存在したし、奈良盆地のど真ん中で三輪山から昇る太陽が通過する多神社も出雲の香りがします。多神社から春分の日の朝、三輪山から太陽が昇るそうです、以前、詳細な記事を書きました、日置ですね。多神社の名前は出雲の『意宇郡』と地名が残る意宇地方の名前ではないかと推測しています。大国主も本当は意宇国主と呼ばれていたのかも知れない。

 ともあれ、唐子・鍵遺跡の巨大な弥生時代の環濠集落の近くには鏡神社が多く存在しています。青銅器時代から精巧な青銅器を製造する技術者がこの地に存在していたと思います。鏡時代になっても、彼らは精巧な鏡を製造できたと思います。

 

 兵主神が山東半島の八神の一つだという話も気になりますね。魏志倭人伝で卑弥呼の鬼道という言葉がでてきますが、確か、鬼道という言葉は山東半島起源の宗教ではなかったでしょうか。道教は確か山東半島生まれだと記憶にありますし、太平道も山東半島発祥の地ではないでしょうか。どうも兵主神と卑弥呼の鬼道とは関係が深いのかも知れないですね。

 考えてみると、江南地方から中国の東シナ海沿岸、山東半島、朝鮮半島南部地方、そして九州有明海、玄界灘、博多方面、そして、日本海沿岸、この流域には海を住みかとする海人と呼ばれる倭人が住んでいたのでしょうね。その風習は江南の影響が大きく、呉音を喋る人種ではなかったでしょうか。

 出雲族と言えども、昔を辿ればこの大海で生活していた倭人だったと思います。大陸で技術革新や政権交代があると、この海人である倭人の世界にも影響が及んだと考えれば、狭いヤマトの問題も解決するかも知れない。大事なのは視点を大きく開き東アジアの規模で歴史を眺める事ではないだろうか。

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