青銅器王朝から鏡王朝への革命
・大物主とアメノヒボコ
『日本書紀』垂仁天皇3年3月条に三輪君の祖、大友主(おおともぬし)と倭直(やまとの あたい)の祖、長尾市(ながおち)を播磨のアメノヒボコのもとに遣わせた時、アメノヒボコは将来物を天皇に献上したと記録されている。この記事は謎であり、何故わざわざ「ヤマト」から播磨まで遣使をさしだす必要があったのかという問題です。
結論から言うと、アメノヒボコ集団はあなどれない「ヤマト」に対抗出来る軍事集団であった事を暗示していると千田さんは考えているようです。しかも、「ヤマト」側からは彼らに播磨の宍粟邑(しさわのむら)と淡路島の出浅邑(いでさのむら)に好きなように住んで良いと「ヤマト」の詔を伝えても、彼らは拒否し、自分の行きたい所に行きたいと言い、宇治川から近江に行き若狭を経て但馬に居を構えたとある。
つまり、アメノヒボコ集団と「原ヤマト」の土着系である三輪君や倭直との対立が存在した事になる。千田氏は大胆にここからアメノヒボコ集団は奈良盆地に侵入し、出雲系のオオモノヌシを三輪山に祭祀する集団が支配する初瀬川を制圧する為に北部の纏向川を制圧したのではないかと考え、巻向山を聖地とする兵主神社を纏向川源流地域に建設したと仮説を述べています。
おおやまと地域の古墳群を観ると、三輪山周辺には殆ど存在しません、纏向川以北に存在している事もこの事実を裏づけている。
千田氏は後漢の頃に日本列島に進出したアメノヒボコ集団が倭国大乱を起こし、大乱の後、女王卑弥呼が推戴され、出雲系勢力の象徴であった三輪山祭祀を掌中に入れた歴史が存在したと述べています。倭国大乱から卑弥呼による統治に至る宗教的変革の時代を「青銅器の王朝」から「鏡の王朝」への転換であると結論している。
銅剣・銅鐸・銅矛などの青銅器を祭器とするのが出雲系の神々の信仰に対して、鏡は渡来系のアメノヒボコ集団の祭器であった。
纏向日代宮(まきむくの ひじろのみや)にいたという垂仁天皇に仕えたのが田道間守(たじまのもり)というのも、纏向と但馬のつながりを連想させる。これらの仮説を証明するには但馬の古墳と「おおやまと」の古墳群を比較検討する必要があると、彼は述べています。兵庫県出石町の袴狭(はかざ)遺跡から準構造船15隻を描いた4世紀初頭の木製品が出土したのも注目であると述べている。
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