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古代河川交通で栄えた湊(3) 大阪平野の拠点湊

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 奈良盆地東南部でヤマト王権が誕生した訳ですが、瀬戸内海航路での大陸との交易湊はどうなっていたのでしょうか。それを理解するには大阪平野の変遷を理解しないと判らないと思います。

 大阪平野の変遷

 古墳時代初期の大阪平野

 古墳時代中期・後期の大阪平野

 河内平野の成立時代

 上記資料は難波宮址を見学した時に難波宮調査事務所で掲載されていた大阪平野の変遷地図を撮影したものです。

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 古墳時代初期は潟湊を使用していたと想定される。北に長く突き出した半島は上町台地と呼ぶが、その先端付近の東側、大阪城の東側の森の宮付近に難波の潟湊が存在したと思います。そして、そのまま真東に河内潟を進むと日下(草香)、現在の石切神社があるあたりの草香の津に辿り着き、陸路で奈良盆地に交通路は開けていた。

 日本海・琵琶湖・宇治川・淀川ルートで南下する人々は難波潟湊を利用したかどうか判らない。応神天皇は難波に大隅宮を構えていたそうなので、明らかに淀川右岸を抑えていた紀氏や巨椋湖東岸の木幡の宇治津を抑えていた和珥氏とともにこの難波潟湊を使用していたと思います。

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 一方、宇治天皇(菟道稚郎子)と対立したオオササギ(仁徳天皇)は住吉の津を拠点として大規模な大津の潟湊の建設を行ったと考えられる。この頃は勿論まだ大和川は河内湖に流れ込んでおり、現在大山古墳と住吉の津は南北に切り離されているが、仁徳さんの頃はラグーンの砂州があり南北に長い湊を開拓した。

 応神天皇が拠点としたのは古市の場所、大和川と石川が合流する場所です。国府と呼ばれる重要な場所であるが、瀬戸内海に出るには河内潟・湖経由でしかでれない、しかし、時代とともに大和川・淀川が砂を堆積し河内潟・湖を湊として利用出来なくなりました。

 仁徳さんは淀川水系とは全く別に住吉の津を南北に拡張し、巨大なランドマークである大山古墳を建造し湊を建設し、東に向かい大津道を建設し奈良盆地への交通路を整備した。このように考えると、仁徳さんの時代でも未だ、国内には対抗勢力が存在し仁徳政権単独では国内を支配出来ない状況だった。

 百舌鳥の地は葛城氏の土地であり、仁徳さん以降の河内王朝は葛城王朝とも呼ばれ、殆どの皇后は葛城氏出身です。そして、最後に雄略さんが葛城氏と対立し葛城氏を倒す事になります。

 仁徳さんの時代でも紀氏は健全で、紀の川河口の紀伊津(徳勒津)は瀬戸内海航路では重要な湊として栄えました。

 参考 『謎の古代豪族 紀氏』(その2)

 参考 『古代大和朝廷』(宮崎市定)

 参考 『巨大古墳の世紀』

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