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古代河川交通で栄えた湊(2) 桂川・宇治川・木津川・淀川水系

 承前 古代河川交通で栄えた湊(1) 巨椋湖東岸 岡屋津

 2.淀川水系の湊

 前回は日本海から琵琶湖水系を経由し宇治川経由、巨椋湖の河川交通の要である巨椋湖東岸の岡屋津、現在の木幡の湊に触れました。ワニ(和珥)氏が応神天皇の時代に栄えその後、王朝を開くまで栄えた歴史に触れました。

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 日本海から大陸への交易路が巨椋湖に通じると次は淀川水系で難波と通じ瀬戸内海航路と繋がります。又、木津川を遡上するとヤマトの国、奈良盆地へと交通路は通じます。古来、淀津、山崎津、木津、淀川右岸の三島津、難波津が栄えました。

 森浩一さんの話では、淀川右岸の三島の地域は紀伊の海人が移住し淀川交通路を抑えたという話です。紀氏ですね、継体天皇の時代まで大伴氏と組みヤマト王権の海外交易を支配したグループです。しかし、継体天皇の時代に朝鮮半島政策で失敗し、大伴氏・紀氏ともに没落し蘇我氏が台頭したのです。

 参考 『謎の古代豪族 紀氏』 メモ記録(1)

 参考 『謎の古代豪族 紀氏』 メモ記録(2)

 三島の地には茨木市安威(あい)の将軍塚古墳(107㍍)には後円部の竪穴式石室の石材は紀の川流域の結晶片岩を多量に使用している。古墳時代初期より紀伊より筏を組み石材を三島に運送したそうだ。海北塚でも紀の川の緑泥片岩がしようされている事が考古学の成果として判っているという。

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紀氏は淀の津がある近くの石清水八幡宮の付近の河川交通路も抑えていたらしい。貞観18年(876年)紀朝臣御豊(きのあそみ みとよ)が神主に任命されてから紀氏が代々神主をする事になったが、此の地を紀氏が治めていた事の証明である。

 男山南麓には阿蘇凝灰岩の舟形石棺をしようした八幡茶臼山古墳や、八幡東車塚古墳(94㍍)、八幡西車塚古墳(115㍍)などの前方後円墳が存在する。

木津川には隼人庄(大住)が存在するがこれも紀氏が南九州の隼人移住に関与していた可能性があるといいます。

 難波の湊は大伴氏が管轄していたと思います、紀氏と大伴氏は連携して淀川水系、木津川水系、宇治川から琵琶湖、日本海の航路を抑えていたと考えられます。

一方、河内方面と大和川水系から奈良盆地の航路は尾張氏が押さえていたと想定されています。次回は、河内・石川・大和川水系について記録したいと思います。

石清水八幡宮や継体天皇即位の樟葉の宮、木津川、は私が生まれ育った場所であり、沢山の古墳に囲まれた場所で育ち、古代史に憧れをもった次第です。三島地方については、京都のMuBlogの旦那と今城塚古墳や周辺を散策しましたので、その記録を参照して下さい。

 参考 『継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳』 目次編

 参考 『継体天皇の縁の地を訪ねる(7) 安満宮山古墳

 此れは(1)から(7)まで記事が記録されています、今城塚古墳から古代の三島地方を考える記事となっています。同行は、京都のMuBlogの旦那さんでした。

 参考 写真集『南山城 木津川古代遺跡を訪ねる』

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