駿河の前方後方墳 高尾山古墳
本日も昨日に引き続き読売新聞朝刊では古墳の話を大きく取り上げていた。今日は、沼津市の高尾山古墳についての話題です。
発掘調査見学会資料が上記記事に含まれています、ダウンロードして詳細な発掘資料を読んで下さい。
参考 平成24年度 静岡県考古学会東部地区例会 『高尾山古墳遺物見学会資料』
沼津市教育委員会、沼津市文化財センターが作成した資料『スルガの王 大いに塚を作る』が素人にも判り易く230年代と250年代両方の説を取り上げ面白く作成されています。
読売新聞記事によれば、高尾山古墳(辻畑古墳名を変更)は全長62㍍、2008年~9年沼津市教育委員会により発掘が行われ、最古級の前方後方墳である事が判明したという。後方部中央から埋葬施設が見つかり、木棺の跡や多量の朱が見つかり、中国製の銅鏡や鉄鏃、鉄槍、ヤリガンナなどの副葬品が見つかった。
土器は地元の他、東海西部、北陸、近江、関東など外来系のものも見つかっており、他地域との交流がうかがえる。この古墳を巡り、箸墓古墳よりも古い年代である230年代に築造されたとする仮説と箸墓とほぼ同じの250年代に築造されたという仮説の二つが論争を巻き起こしているそうだ。
・230年代説
愛知県埋蔵文化財センター副センター長の赤塚次郎さんが提唱。彼は魏志倭人伝に登場する『狗奴国』は伊勢湾沿岸に存在したとする仮説を提唱しており、高尾山古墳の被葬者は200年前後のこの地域の英雄で狗奴国の仲間の一人だったのではないかと推測。東海地方に多い前方後方墳は東海系文化が根づいた地域に築かれたという論である。
高尾山古墳の墳丘や周溝で出土する土器には東海西部系のものが多数含まれ、脚付きの土器・高坏(たかつき)は230年頃の製作と考えられると言う。
東日本では、長野・弘法山古墳や栃木・那須八幡塚古墳といった前方後方墳が見つかっており、高尾山古墳はそれらの古墳群とともに、東海系文化の広がりを示す『最古級前方後方墳』であると述べる。
・250年代説
奈良県桜井市纏向学研究センター所長の寺沢薫さんが論陣を張る。副葬品の鏡や鉄製品は3世紀半ば以降と考えられ、周溝などにはたまたま古い土器が紛れこんでいたと考える。墳形がヤマトに築かれた初期の前方後円墳の規格と共通する点があると述べる。前方後方墳は政治的に対峙する形で造られたのではなく、前方後円墳の影響で生まれたとする。高尾山古墳は東海系の影響も大きいが、背後にヤマトの影響が見え隠れすると述べる。
明治大学名誉教授の大塚初重さんは、高尾山古墳は、東日本など各地の古墳出現論に大きな影響を及ぼすと評価。両説どちらでも、この古墳の重要性に変わりは無いと述べる。
上記、年代論の詳細と根拠については、上記掲載の資料『スルガ王 大いに塚をつくる』で丁寧に解説されていますので、興味のある方は是非、一読下さい。
東海関係の古代史に関しては最近、2回記事を書いています。
(1) 三尾勢(みおせい)の内海 (2011年4月4日記事)
(2) 古墳出現期前夜の東海人の相模川流域への集団移動(2012年3月4日記事)
弥生時代後期には相模川流域と金目川流域に東海系の人々が集団で移動して来た考古遺物が認められており、大規模な列島の人々の移動が存在したようです。弥生時代後期後半の時代の祭器では若狭・近江・東海・中部地方が同じ三遠式銅鐸をレガリアとして祭るグループと考えられ、私は中心は近江ではなかったかと推測しています。
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