難波宮跡・大阪歴史博物館紀行 その1 難波宮跡編
写真は上町台地の一番高い場所に建設されていた難波宮の大極殿基壇と奥の低い位置に建つ大阪城の風景です。この場所は堺の方面から細長く半島が突き出るような場所で瀬戸内海と河内湖を分断する先端位置です。古来、この半島の先端部分では瀬戸内海と河内湖が狭い水路で繋がり潮の流れが急でした。だから、難波と呼ばれるのです。
この河内湖の水を抜くために仁徳天皇は上町台地をぶち抜き、運河を掘削し河内湖の水を瀬戸内海に抜いたのです。そして、潟から平野になり巨大な稲作農地が開墾出来、多くの米を獲得出来たので、民は豊になり、人々はオオササギ大王を仁徳天皇と後の世に呼ぶようになりました。
過去記事 副都論 2009年1月17日記事
この遺跡を語る時に大阪市立大学教授であった山根徳太郎さん(1889年~1973年)を抜きに語る事は出来ない。彼は、退官後も難波宮跡の発掘に情熱を燃やし、遂に1961年(昭和36年)に後期難波宮の大極殿を発見したのだ。彼の狂人的な行動力は当時大阪市の職員であった私の身内の人の証言で私は彼を知りました。こんな人が居ないと遺跡は守れないのですね、吉野ヶ里遺跡の高島父子を思い出します。
そうそう、同行させて貰ったMuBlogの旦那さんも記事を書かれています。
参考記事 MuBlog 難波宮からの二上山
詳しくは、写真集を参考にして下さい。
マイフォト 難波宮跡・大阪歴史博物館 写真集
大極殿跡の柱跡です。詳しくは大阪文化財研究所の難波宮調査事務所を御訪問下さい、私と京都のMuの旦那も突然だけど、訪問できました。
参考 大阪文化財研究所 難波宮
大阪歴史博物館内のレストランで食べた昼飯の大阪城御膳だけど、何処が大阪城なんでしょうね。(笑)
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Comments
Joさん
たしかに、大坂城御膳は笑いましたが、それにしても、あのレストランの混み様は異常でした。
なんであんなに人で一杯になるのかな。となりのNHKにはレストランがないのでしょうか?
念願の難波宮を踏破できてうれしいです。Joさんがガイドしてくれると安心だからね(笑)。
再見、遺跡の旅。
Posted by: Mu | 2012.10.22 06:43 PM
Muの旦那さん
大阪城御膳、何処が大阪城か判らないけど、美味しい御膳でしたね。
Mu旦那との遺跡の旅、もう何回ぐらい御一緒でしたかね。今度、調べてみましょう。九州までそういえば、行きましたね。
Posted by: jo | 2012.10.22 09:16 PM