天香久山
今回は、天香久山(あまのかぐやま)について今迄記録して来た事をまとめたいと思います。
天香語山命と天香久山
天香久山は畝傍山、耳成山とセットで語れるヤマト三山として有名ですね。私が未だ解けない謎は神武天皇がヤマトに入る前に天孫族としてヤマトを支配していたニギハヤヒさんの息子の天香語山命(アマノカゴヤマノミコト)と天香久山の関係です。
天香語山命さんはニギハヤヒさんが天孫降臨する時に同行して降臨しました。即ち、降臨前に天道日女命(アマノミチ ヒメノミコト)さんを母とし、父はニギハヤヒさんでした。降臨後の名前は手栗彦命(タクリヒコ)とも高倉下命(タカクラジ)と呼ばれていたようです。そして、尾張氏の祖となり、異母兄弟のウマシマジは物部氏の祖となりました。
天香久山の名前はこのニギハヤヒの息子の天香語山命に由来するのではないかと推測しています。彼は父とともにヤマトに入植するが、地元豪族の長脛彦の娘との間に生まれた異母兄弟のウマシマジ(物部氏の祖)が父の死後、母の兄である長脛彦と組んで三輪山山麓を中心に、ヤマトを統治しており、天香語山命は息子の天村雲命とともに、長脛彦と対峙していた葛城氏を監督していたらしい。
当時の葛城氏の本拠地は金剛山の中腹、高天の台地付近と考えられている。海抜450㍍程度の高台であり、記紀神話の『高天原』を想起させるような場所です。現在、高天彦神社が近くにあります。一方、尾張氏の本拠地は葛城氏の本拠地の北の位置、金剛山の麓である現在の長柄神社付近と考えられ高尾張邑(たかをはりむら)とよばれており、そこに天香語山命は拠点を置いたそうだ。葛城氏は本来は土着の豪族だったが、天香語山命の子孫や尾張氏と婚姻関係を結び家格をあげてゆき、遂に天皇家と婚姻関係を結ぶレベルに成長した。
葛城氏と言えば、鳥越憲三郎さんの『葛城王朝』論を思い出します。鳥越さんは、神武天皇から欠史八代と言われる天皇は存在したという立場であり、崇神王朝以前に葛城地方を拠点にした王朝であったが、崇神さんに滅ぼされたか又は、王朝が並立したという仮説である。しかし、その後、河内王朝を樹立させた神功皇后・応神天皇からの河内王朝はこの葛城王朝の末裔と結託し瀬戸内海航路の制海権を握りヤマトを制圧したと考えられています。
事実、河内王朝の皇后は殆ど全てが葛城氏出身であります。(神功皇后も母は葛城氏でしたね、父は息長氏)。
参考 葛城 一言主神社 その1(鳥越憲三郎さんの葛城王朝論)
このように考えると、天香語山命の子孫は葛城氏、尾張氏として存続し、崇神王朝に代わり河内王朝を樹立した大事な氏族であった事になります。河内王朝の頃からは、多くの渡来系氏族を集め最先端の文化・文明を育んだ。河内王朝のあと、継体天皇が新しい王朝を開基しましたが、彼も息長氏の系統ですから葛城・尾張と同族に近い関係だと思いますので、體を継いだ大王と言う意味で継体という名前を奈良時代に命名されたのでしょうね。
天香久山はヤマトそのもの
天香久山はどうも、ヤマトを代表する土地であるという信仰が存在したようです。例えば、崇神天皇の時に山背のタケハニヤスと古代最大の戦争ではないかと、森浩一さんは言っていますが、崇神とタケハニヤスとの戦争が起こりました。その時に、タケハニヤスの奥さんのアタヒメ(阿多隼人の媛)も戦闘を指揮します、その時に彼女は天香久山の土を採り、ヒレ(スカーフ)に包み呪いをかける場面が記録されています。
天香久山の土はヤマトそのものの地霊であると考えていたようです。この話は以前、記事にしました。
その他、天香久山の金を使用し矛を作成したという記事も存在しているようです。天香久山は耳成山や畝傍山と異なり火山の山の裾野に位置していますね。火山性の山のようです。製鉄に関わったニギハヤヒの息子である天香語山命はまさに、鉱山に関わる金属加工のテクノクラートであった筈です。彼らが、最初にヤマトに入植した時に天香久山が鉱山として重要な山である事を見つけたのでしょうね。だから、彼の名前を山の名前にした可能性はないでしょうか。
注: 天香久山の香久=カグ は古代では鉱山を意味する言葉であったとされています。ちなみに、かぐや姫伝説の場所は、私の故郷の近くの大住隼人の隼人荘が舞台だそうです。
参考 秦氏に関するメモその2 香春岳と天香山(2010年6月26日)
この山が特に注目され始めるのは天武・持統天皇が藤原宮を大和三山に囲まれる真中に建設した時から顕著です。天武さんは、当時の東アジア情勢を見極め、中国の中央集権国家の出現をあらゆる意味で参考にしたんでしょうね。都は聖なる三山で囲まれるという思想も、元はと言えば中国ですね。
天香久山と持統天皇
万葉集にも新古今にも収録されている持統天皇が歌われた歌が有名であり、謎だらけだそうです。
(万葉集)春過ぎて 夏来るらし 白楮の 衣ほしたり 天の香具山
(新古今)春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
若い頃から何で聖なる山である香久山に洗濯物を干すのか、そして、藤原宮から洗濯物が本当に見えるのか、歌われている表面だけをみると、平凡な駄作の歌であり、何でこんな歌が万葉集にも新古今にも収録されたのか、疑問でしたね。
この歌の解釈は先輩諸氏が色んな解釈を試みられていますが、今だに定説はないと思います。藤原京にとり東の太陽が昇る香久山は日の経と呼ばれていたそうです、本当に重要な聖山の筈でした。
・中西進さんの意見
『中西進と歩く 万葉の大和路』(ウェッジ選書8 2001年)によれば、この歌は冬の季節、香久山にうっすらと雪化粧がなされた光景を持統さんが詠まれたと結論されています。冬どころか、春も過ぎて夏が来たらしい。香具山の神さまは衣を乾かして、いらっしゃる。と解釈されていますね。その理由に、万葉集の東歌には筑波山の雪を衣で表現したり、京都の衣笠山の命名の由緒が山の雪を衣と表現する古代の感覚が存在したという。
・持統さんの政権奪取の感想
誰の意見であるか忘れましたが、確か天武天皇が身罷り、後を継いだ持統さんがこれでやっと皇位継承式も済み、その儀式で使用した自分の白楮がヤマトの地霊である香久山にたなびいている。これからは、私の時代である。と、解釈してる人がいたような記憶があります。
いずれにせよ、ヤマトにはヤマトと呼ばれる前はトミと呼ばれていたと仮説を述べる人もいますが、長脛彦の鳥見山、ニギハヤヒ・ウマシマジや大物主の三輪山、そして、香久山、最後に太陽が沈む二上山(あの世)は重要な聖山です。
(追加)
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