二カ所に鳥見山が存在
私が馴染の鳥見山は桜井の外山(トビ)で桜井(外山)茶臼山古墳が丘尾に存在する鳥見山です。しかし、もうひとつ、宇陀に鳥見山が存在しています。
鳥見山は最近思うに三輪山よりも古代史を考える上で重要な山ではないかと考えるようになりました。その理由は、色々ありますが、先ず、以下の2点が重要事件だったと考えるからです。
① 日本書紀の記述で神武天皇紀4年春2月の条
乃(ち)立(たてる)霊畤(まつりのにわ)於鳥見山中。其地号曰上小野(かみつおの)榛原(はいはら)。下小野(しもつおの)榛原(はいはら)。用(もて)祭(まつる)祖(みおやの)天神(あまつかみ)焉。
神武天皇は長脛彦を滅ぼし、奈良盆地を制圧し安定すると鳥見山の榛原に皇祖天神を祭られたと記録されています。霊畤(まつりのにわ)は奈良県宇陀郡榛原萩原であると考えられています。現在、鳥見山公園に鳥見山中霊畤跡として、東西70㍍、南北40㍍の楕円形の場所から多数の祭器の破片が出土しているそうです。
②先代旧事本紀によれば、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)が降臨した場所
巻第5 天孫本紀(あめみまのもとつふみ)によれば、『天の磐船に乗りて天降りて、河内国の河上の哮ケ峰(いかるがのみね)に坐す。則(すなわ)ち、遷(うつ)りて大倭(やまと)国、鳥見(とみ)の白庭山(しらにわのやま)に坐(いま)す。
と記録されております、最初は淀川支流の天の川の上流の交野の現在の磐船神社があるあたりに降臨(私の解釈は船で着いたという意味)され、そのあと、大倭国(やまとのくに)の鳥見の白庭山に遷坐されたようです。
神武天皇は長脛彦を殺し、神武天皇より先に天孫族としての先輩である饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)が現地の長脛彦の妹と結婚し子供(宇摩志麻遅命)まで作り、国を治めていた場所に侵入者として入植した訳です。そして、神武さんは大王として君臨しようとしたが、先輩のニギハヤヒさん(既に亡くなっていました)や息子のウマシマジを疎遠に扱う事が出来ずに側近の重要な立場に着かせたと思います。
私はどちらの鳥見山でもいいですが、やはり丘尾を切断して巨大な前方後円墳である桜井茶臼山古墳や西南に同じく巨大な前方後円墳であるメスリ山古墳が存在する桜井の外山(トビ)に愛着があります。此の地は磐余(イワレ)という場所も近く、神武天皇がイワレヒコと呼ばれる事からも外山の鳥見山を重要視します。
しかし、外山(トビ)の鳥見山と三輪山は目と鼻の先の至近距離にあります。外山の鳥見山山麓には古墳時代初期の巨大前方後円墳、桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳が存在し、三輪山山麓には纏向地域の発生期前方後円墳が数基とあの箸墓古墳が存在しています。
三輪山の神である大物主という出雲系の神と饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)を重ねるとどうなるんでしょうか。もしそうなら、先代旧事本紀では鳥見山と書かずに三輪山と書いたでしょうね。やはり、別の人物であったのでしょうか。
桜井茶臼山古墳の内容を観る限り、これは、大王以外の誰でもないとてつもない権力を持った人物の墓である事が考古学の成果としてでています。ニギハヤヒか、息子のウマシマジの墓かそれとも実権を握っていた長脛彦なのか、それとも征服王朝を築いた神武天皇の陵墓なのか、悩みが尽きない。
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