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ヤマトタケルに関するメモ

 今年の夏に古市古墳群にある白鳥陵を参拝したり、先日は息長氏の故郷である近江(淡海)の伊勢遺跡を歩いて来た。本日、畏友の京都のMuBlogの爺さんがヤマトタケルの能褒野墓に関する参拝記事があり、私も何かメモを残そうと考えた。

 MuBlog 景行天皇皇子・日本武尊・ 能褒野墓

 参考 ヤマトの崇神王朝と近江の王朝は並立していた(2011/4/23日記事)

 参考 古代史・民俗学関連読書メモ(宮崎市定さんの古代大和朝廷)2010/9/21記事

 ヤマトタケル物語は日本が世界に誇る文化遺産、大叙事詩だと思います。何処か、義経の歴史と重なる所が有り、日本人が愛してやまない所があります。父である景行天皇から命令され、九州の熊襲タケルを女装して謀略殺害し、出雲タケルもだまし討ちで殺害し出雲を平定する。そして、今度は東国の蝦夷を平定にでかけ困難な戦いにも何とか成功し、やっと故郷のヤマトや河内に帰れるところで、鈴鹿の山の神に殺され、無念にも魂は白鳥となり、葛城の琴弾原に舞い降り、又、飛び立ち河内の古市で舞い降り(白鳥陵)、そして、何処かに飛び去ったという悲劇の皇子として語られている。

 この物語には大変重要な歴史の真実が隠されている可能性があるのではないかと、子供の頃から考えています。今だ、解明されていないのですが、何か昔から疑問が多く存在していました。

 ・皇室の三種の神器の二つが皇居に存在しない

 草薙(くさなぎの)剣=天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢神宮に保管されている。皇居には八尺瓊の曲玉が保管されている。古来、何故、三種の神器が皇居に存在しないのかが謎であります。同時に、皇祖神である天照大神を何故皇居で祭らずに遥か離れた、皇室とは縁もゆかりもなかった伊勢神宮で祭られているのか。

 ヤマトタケルはこの神剣を授けられ、神宝の名前が彼が具体的に戦闘を行った行為になぞらえて、『草薙剣』と命名された。この皇室の神宝に具体的な成果をもたらせたのはヤマトタケルであった。元来は、スサノオが出雲でヤマタノオロチを退治した時に尻尾から出現した剣であり、オロチの天空には何時も叢雲が湧いていたので、叢雲剣と呼ばれていたという。

 ・神宝の剣を授かる事は天皇であった事ではないか

 ヤマトタケルが熱田神宮より神宝剣を授かったという事は、天皇の位についた事を意味しているのではないだろうか。『常陸国風土記』では倭建命(ヤマトタケルのミコト)と記録され、『阿波国風土記』でも倭建天皇と記録されている。

 ・何故、魂は白鳥となり葛城・古市へ飛翔したのか

 5世紀の古墳には水鳥の埴輪が出現してきます。

 参考 近つ飛鳥博物館(水鳥埴輪)

 ヤマトタケルの心は何が何でも葛城の琴弾原と河内の古市に帰還したかった理由はなんだろうか。彼の母は確か播磨国の人だったと思います、古市のあとは、播磨に飛んで行ったのだろうか。しかし、ヤマトタケルを支持する人々が葛城と河内に存在した事は確実なんでしょうね。

 

 ・何故、『草薙剣』を持たずに伊吹山の神と対峙したか

 伊吹山の神は王権の敵では無いと考えたからだと思います。神宝の剣で向かう相手は王権の敵の時である。だとすると、ヤマトタケルは味方に殺された事になります。伊吹山は太古から製鉄の神、(穴氏系統)が支配していた場所です。息長氏である可能性が高いと思います。ヤマトタケルの父の景行天皇は晩年に近江の大津の穴太に遷都し、息子の成務天皇も志賀高穴穂宮に宮を構え、ヤマトタケルの息子の仲哀天皇も最初の宮は近江だった。

 ヤマトタケルは息長氏と敵対する関係になっていたのでしょうか。父の景行天皇もその後を継いだ成務天皇も、自分の息子の仲哀天皇もタラシと名前が付くが、ヤマトタケルは小碓命である。息子の仲哀天皇もオキナガタラシヒメに謀殺されたのではないだろうか。

 ・まとめ

 林屋辰三郎氏が主張したヤマトの崇神王朝と近江の王朝が並立していたと考えると、ヤマトタケルはヤマトの王朝の側にいた人物だったかもしれない。母が播磨の人である事が重要だと思います。

 歴史は崇神さんの三輪山王権もしくは、近江王権から河内に移行し、葛城氏は皇后を独占する時代となり河内に巨大な前方後円墳が建造される事となりました。奇しくも、ヤマトタケルの魂が白鳥となり帰還した場所が次の世代の王都となり栄えた事をヤマトタケル物語は語っているのです。

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Comments

JOさん
 太字であげられた「謎」[課題」の答えを考えると、ヤマトタケルのことがもう少しわかると思いました。

 なお、Muは近々に、ヤマトタケルに草薙剱をてわたした。倭姫命さんの記事を書きます。

Posted by: Mu | 2012.09.07 05:32 AM

Muさん

  最初は、Muさんの記事にコメントを入れようとしたのですが、長くなりそうでしたので、記事にしてしまいました。

 倭姫命の記事、楽しみにしています。記事がアップされれば、私も記事を書こうと思います。倭姫命とはヤマトのお姫様、まるで、ヤマトタケル=ヤマトの勇者と同じ一般名詞みたいですね。

 ヤマトを代表するお姫様と同じくヤマトを代表する勇者の物語の始まりですね。

Posted by: jo | 2012.09.07 06:11 AM

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