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太陽神と斉王の制度

 承前 ヤマトタケルに関するメモ

 前回の記事ではヤマトタケルに関するメモを残しました。ヤマトタケルに『叢雲剣(むらくものつるぎ)』を渡したのは伊勢神宮の斉王の初代と考えられる倭姫命(やまとひめのみこと)です。実はこの行為そのものが、卑弥呼さんの時代から綿々と継続していた巫女女王と政治を行う男弟(だんてい)王の形態を示していると考えています。

 魏志倭人伝で述べる倭国の国の体制は頂点に巫女女王が君臨し男弟王が巫女女王のお告げで政治を行う形態でした。此れは、長江流域の南方系の政治形態であり、近世まで例えば沖縄では聞得大君(きこえのおおきみ)と男弟王の関係がまさに、古代の倭国の国のかたちでした。それは、母系社会であり、刺青をする風習を持ち、南方でしか取れないゴホウラの貝輪を腕につけ、巫女さんも刺青をする風習でした。

 弥生時代から古墳時代がはじまる頃までは古墳に埋納される神器は鏡であり貝輪であり、呪術的なものが中心でした。多分、長江流域から東シナ海から朝鮮半島南部の、馬韓・弁韓・辰韓も九州の人々も全て同じような文化を共有する倭人だったと思います。倭国では南九州の薩摩半島あたりにこれ等の文化・文明は到着し、隼人や安曇族・宗像族・和邇族という海人(あまのひとびと)が中核となり、北九州から日本海を北上して文化・文明を伝えた。又、瀬戸内海を東に伝播させた海人達がおりました。

 しかし、4世紀の頃に朝鮮半島でも北方遊牧民特に扶余族が南下を始め、海洋民族の馬韓・弁韓・辰韓を北方から攻める事になりました。これが、後の百済・高句麗・(新羅)と呼ばれる遊牧民です。元来、南朝鮮半島に住んでいた人々は九州と同じく甕棺墓を特徴とした人々なんですね。そして、日本列島にもこれら北方遊牧民の文化が押し寄せる事となりました。

 『記紀神話』の基盤になるものは南方の長江流域の文化・文明ですが、しかし、その上に有る時期から北方系の天孫降臨のような文化・文明がかぶさるよになりました。天照大神は長江流域の海洋文化の神ですが、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は北方遊牧民の神であります。

 『記紀』が述べる、崇神天皇の時に実は、この南方系の太陽神である、アマテラスが放逐され、北方遊牧民の神が採用されたのではないかと考えるようになりました。時代が、崇神さんの頃かどうか判らないが、南方系のアマテラス太陽神は豊鍬入姫命に託し笠縫邑に皇居から追い出した。そして、アマテラスの御霊は二十年以上流浪の旅を行い、ヤマトタケルに神宝剣を授けた倭姫命により伊勢神宮に落ち着く事になったのです。

 考古学から言えば、前方後円墳に埋納される神器が突然に武器に変化した頃がこのアマテラスが放逐された時期ではないかと考えています。巫女女王が国を支配する時代ではなく武力により国を統治する北方系の男社会になった時であると考えます。倭姫命は卑弥呼の時代のアマテラスが神として崇敬されていた時代の巫女女王のカタチを斉王という形で残したのではないでしょうか。

 ヤマトタケルを次世代の王として指名し、『天叢雲剣』を授けたのは古代の卑弥呼の時代に戻そうとする戦いだったと思います。ヤマトタケルはそれを受領した事が、景行天皇の逆鱗に触れたのでしょうね、義経が頼朝に無断で天皇から官位を受けたのと同じではないでしょうか。父である景行天皇の逆鱗を知り、ヤマトタケルは神宝剣を倭姫命に返却し畿内に入ろうとしたが、義経が鎌倉に入れなかったと同じではないだろうか。

 倭姫命にも具体的には勝算が存在していたと思います。彼女の経済・武力の背景はヤマト王権や近江王権に匹敵するタニハ王権(昔の丹波・丹後の国 独立国だったと想定されます)が背景にありました。元伊勢の籠神社(このじんじゃ)には国宝の『海部氏系図』が残されている事でも如何にこの丹後半島・丹波の地が製鉄でも海外貿易でも栄えた国だったかが偲ばれます。

 

 倭姫命に戻りますが、ひょっとすると巫女女王が倭姫命であり、男弟王が景行天皇という立場であった可能性があります。多分、倭国が北方遊牧民の強力な大王中心の社会に舵を切っても、反抗する多くの海人族(安曇族、宗像族、和邇族、等々)が依然として太陽神を崇拝していたのではないでしょうか。

 この辺りの推論はお伊勢さん参拝記の『皇祖神二柱の謎』で詳しく記録しましたので、そちらを参照して下さい。

 記紀に登場する巫女女王としては、やはり卑弥呼ではないかと推測される、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメ)が有名です。あの箸墓古墳に眠るという巫女女王です。彼女は第七代孝霊天皇皇女として生まれ、多くの予言を行い巫女女王に相応しい記録が残る女性です。

 最近、彼女の名前の中に『トビ(鵄)、トミ(鳥見)』という重要な土地の名前が含まれている事に気がつきました。あの桜井(外山=トビ)茶臼山古墳が存在する鳥見山が有る場所です。神武天皇より先にヤマト入りをしていたというニギハヤヒが拠点とした場所です。神武天皇がヤマト入りした時には長脛彦が拠点としていた場所でもあるようです。

桜井茶臼山古墳の内容が判明すればする程、大王か巫女女王の墓ではないかと確信する研究者が多いと思います。倭迹迹日百襲姫命は三輪山の麓に鎮座されているが、南の聖地である鳥見、鵄、外山、磐余の聖地も支配していたと名前から推測されるのではないでしょうか。

 参考 タニハ(丹波)は独自の王国だったか 目次編

 

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