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有明湾は中国、長江下流域との交易が盛んだった

 承前 吉野ヶ里 邪馬台国が見えてきた(2004年12月記事)

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最近、森浩一さんと網野善彦さんの対談集『馬・船・常民 東西交流の日本列島史』(河合出版)を読んでいるのですが、その中で、有明湾に関する、特に吉野ヶ里遺跡に対する見解が面白いのでメモを残しておきます。

 結論から言うと吉野ヶ里遺跡は筑後川支流にあり、大陸、特に長江下流域との交易が盛んな場所であったと結論があり、魏志倭人伝に登場する弥奴(みな)国か隣接国であると森さんは仮説を述べています。その理由はいろいろとあるが、日本書紀の雄略天皇の頃の記載事項で呉の国に派遣した身狭村主青(むさの すぐり あお=黒岩重吾さんの『ワカタケル大王』を是非読んで下さい)が帰国した時に持参した珍しい鳥を有明海沿岸のある人物の犬に噛まれたという話があります。

 ある人物とは①水沼(間)=みぬまの君 ②嶺懸主泥麻呂(みねの あがたぬし ぬまろ)であると二つの説を記録するがともに筑後川下流域、有明海に注ぐ吉野ヶ里遺跡の近くで有る。

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 嶺(みね)懸主(あがたぬし)に注目すると弥奴(みな)国と発音が似ているので推論されている。嶺は時に三根とも記述され、明らかにミネと発音したと考えられろ。雄略天皇は倭の五王、武だと考えられているが、江南の南朝と交易していた拠点の港が有明海沿岸という事になります。勿論、この港からのみ南朝と交易していた訳ではないと推測されますが、明らかに日本書紀の記述は有明海の筑後川下流域となり、吉野ヶ里遺跡の近く、後の神埼荘付近となります。

 中世の神埼荘は森さんの話では、後院領と呼ばれる天皇家の直領だったそうです。平忠盛が鳥羽院の時にこの荘園の管理者になり、太宰府の許可無く院宣だけで宋と貿易を行い問題を起こしました。中世でも吉野ヶ里地域は大陸との貿易港として栄えた場所であった訳です。

 神埼荘にはこの時代より少し古い時代の下中杖(しもなかつえ)遺跡があります。この遺跡からは越州窯(えつ しゅう よう)の焼き物、越磁が多く出土するそうです。越州窯とは中国江南、即ち寧波(ニンポー)の港の近くに沢山窯があったそうです。唐の終わりぐらいに銭氏呉越国(せんし ごえつこく)という小さな国があり、彼らは輸出用に沢山の青磁を焼いたそうです。

 吉野ヶ里遺跡に関しては、築紫紀行を参照してして下さい。

 参考 築紫紀行 総目次編

 有明海は築紫紀行でも記録しましたが、私の父の生まれ故郷です。鍋島藩の飛び地である杵島郡蘆原(橘村)で大陸との貿易商を行っていました。残存の記録では天保6年生まれ曾祖父まで詳しく判明しています。江戸時代から明治にかけて橘村の庄屋も兼ねていたようです。

 家の裏庭に貿易船が停泊していたという話を子供の頃父の子供の頃を知る人々から聴いていました。まさに、有明海沿岸の大きな河川の河口には、吉野ヶ里や神埼荘と同じように大陸と貿易をする港が存在していたのです。最近の調査では家康の時代の朱印船貿易では尾張の茶屋四郎が大活躍するのですが、ベトナム中部のホイアンを訪問した時に、私の父の祖先も大いに茶屋四郎と関係が深かったのではないかと思いました。

 参考 ベトナム縦断1800㌔の旅 ホイアン 日本人町の記憶(2011年11月記事)

 茶屋家の菩提寺の情妙寺は筒井町に存在し、ホイアンには茶屋新六郎が鍋島の有田焼を多量に持ち込んでいます。朱印船は有明海の杵島郡蘆原(橘村)の父の先祖が担当していたのではないかと推測されます。今後、色々と調べてみようと思います。

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