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海人族と日本の基層文化 関連メモ

 中西進編集の角川選書『南方神話と古代の日本』は面白い本でした。特に、千田稔さんの『海人族と日本の基層文化』は何回も読み直しました。グーグルアースを検索し、関連場所を確認しながら読み進めるのが必要でした。

 千田稔さんは、以前、三輪山セミナーで講演をお聞きした事があり、その時も神武東征に関する地理に関し目からうろこの感動を受けた記憶があります。

 参考 第4回 三輪山セミナーイン東京 千田稔氏講演録「2007年8月」

 今回の話は記紀や風土記その他資料に残された神話を辿ると、長江流域に神話が辿りつくという話です。これ等の神話を伝えたのは薩摩半島の南部の海人族の人々であると述べる。阿多(吾田)隼人、阿曇族、宗像氏、和珥(和邇=ワニ)氏は本来、薩摩半島の南部に拠点を置く海人族であったと結論する。彼らは、長江下流域から航行し、海を生活の場とする民族であり、東シナ海から山東半島、朝鮮半島南部、九州と活躍していた民族であるとする。

 ・大山祇(オオヤマツミ)の神

 天孫降臨神話ではニニギノミコトが降臨し、オオヤマツミの娘のカムアタツヒメと結婚する話がある。この娘はアタという地名がまさに、薩摩半島の阿多(吾田)であろうと推測される。又、出雲神話でもオオヤマツミの子供である、アシナヅチが登場し、オオヤマツミの神が薩摩半島南部から日本海ルートで出雲に出現し、瀬戸内海ルートで大三島の大山祇神社を残し、又、黒潮に乗り三宅島・伊豆の三嶋大社を残している。

 沖縄の国頭郡にも安田(アタ)という地名があり今後の研究が待たれるとする。

 (今までのまとめ)

 ・大三島 大山祇神社

 ・摂津 三島鴨神社

 ・伊豆 三嶋大社と三宅島

 ・阿多(吾田)隼人の故郷

 ・伯耆の阿多郷

 ・吉野川流域の隼人の拠点

 ・沖縄の国頭郡の安田(あた)と薩摩の阿多(吾田)

 ニニギノミコトがオオヤマツミの神の娘と結婚し出来た子供が海幸=ホデリノミコト(火照命)でこれが隼人阿多君の祖となります。山幸=ホオリノミコト(火遠理命)は海の底にいる神であるトヨタマヒコの娘であるトヨタマヒメと結婚する事になる。このトヨタマヒコは阿曇氏の祖でありオオヤマツミと阿曇氏が結合することになる。

 阿曇氏の本拠は私も金印の出土地を訪問したが、福岡県粕屋郡の新宮町あたりと考えられているが、本来は薩摩半島南部の阿多(吾田)ではないかと千田氏は推測している。海幸・山幸神話は隼人だけの神話ではなく、阿曇氏も介在していたと考えられる。

 実は、宗像氏も吾田の片隅命の子孫であると、『新撰姓氏録』の「河内国 神別」に記録されているらしい。「右京 神別下」では、宗像の朝臣、大神(おおみわ)の朝臣の同祖であり、吾田の片隅命の子孫であると記録されている。

『先代旧事本紀』では阿太のカタスノミコトは和邇君の祖であると記録されており、和邇(和珥)氏も本拠が南薩摩半島の阿多であると言う。このワニという名前の由来は千田さんの推測では揚子江ワニではないかと述べている。古代の和邇氏は天皇家に続々と皇后を送り込む氏族でしたが、やはり、出自は長江下流域となります。

 王権の中枢部に海人文化が存在したか

 三輪山の祭祀に海人の文化が影響を与えていたかその痕跡を追跡してみよう。

 『日本書紀』崇神紀7年2月条の記事は有名です。大物主が夢に登場し、世の中が治まるには子孫の大田田根子を探し出し、彼に祭らせよとお告げがでます。探し当てると、茅渟(ちぬ)の県(あがた)=今の和泉地方の陶邑(すえむら)にオオタタネコは住んでいたと記録されている。陶邑とは須惠器の巨大な窯群が存在し日本各地に須惠器を供給した工業地帯だった。そして、彼は三輪山の神を祭祀する立場になり国は治まったという。

 三輪山山麓で出土した須恵器74点を分析すると、佐々木幹雄氏の分析では殆どが陶邑の窯で焼かれたもので有る事が考古学的に証明されている。

 『住吉大社神代記』の「船木等本記」には大田田命という名前が出てくるそうだ。船木の連(むらじ)とは船を作る木材を扱う氏族だそうですが、その祖が大田田命という名前であり、且つ、日の神を奉じていたと記録されている。住吉大社に関係ある氏族に大田田命という人物が存在した事は重要ではないでしょうか。

 陶邑は現在堺市に陶荒田神社が存在し、昔の住所は泉北郡東陶器村大字太田となっていました。神社の森をオオタの森と呼んでいたそうです。大和国の葛上郡にある多太(ただ)神社は昔、オオタと発音していたそうです。この神社はオオタタネコを祭っているそうです。

摂津国の河辺郡にある多太(ただ)神社もオオタタネコの伝承を持っているらしい。

 『播磨国風土記』揖保郡には「大田の里、大田と言う理由は、昔、呉の勝(すぐり)が韓国より渡り来て、最初は紀伊の国名草の郡大田村に住み、その後、摂津の国三嶋の賀美(かみ)の郡の大田の村に移ったらしい。そして、又、揖保の郡の大田の村にも遷り住んだと記録されている。千田さんの説では呉は長江下流域の呉であると考えておられるようです。長江下流域から韓半島を経由して倭国に到来したと考えている。

 和歌山市秋月に日前・国懸神宮という有名な神宮に接した西に大田という地名が有ります。この神宮は天照大神と関係の深い神社だそうです。この太陽神と関わる事が重要だと千田さんは述べています。大坂の三島の大田近くに茨木市福井に新屋坐天照御魂神社があり、揖保郡にも龍野町に粒坐(いいぼにいます)天照神社があり、いずれも天照が出てくる、この天照の祭神はいずれも火明命(ほあかりのみこと)であり、おそらく、天照大神はこの火明命から昇格し皇祖神になったと考える神話学の学者が存在するそうです。

 この火明命というのは海人族が信仰する神であり、京都宮津市の籠(この)神社の国宝の海部氏の系図も火明命から始まっているそうです。尾張の尾張氏も海人族であうが、やはり火明命が祖先であると記録している。海人族と火明命が関係が有って、それがオオタという地名と結びつく可能性があります。そのオオタがオオタタネコと関係し、オオタタネコが三輪山を祭祀したとなると、三輪山信仰の中に海人族の影を見出すことになると千田さんは述べています。

  参考 陶邑のオオタ

  参考 和歌山のオオタ

  参考 茨木市のオオタ

  参考 太子町のオオタ

  参考 日前・国懸神宮とオオタ地名

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