聖徳太子御廟・叡福寺を参拝する
Muの旦那の車で古市古墳群から南に針路を採り、日本の『王陵の谷』と呼ばれる一画、聖徳太子御廟・叡福寺を訪問出来ました。
参考 聖徳太子御廟・叡福寺参拝 写真集
二上山から延びた山麓の傾斜面が太子町のほぼ真中を東から西に向かって、幅広い谷地形を作っています。この谷は磯長谷(しながだに)と呼ばれ、河内飛鳥の中心である。
磯長谷の南の山の斜面には二百数十基からなる葉室一須賀古墳群が分布し、近鉄線、上ノ太子駅の北に広がる丘陵地帯には、観音塚古墳やオーコー塚古墳など著名な終末期古墳をはじめとする約五十基の古墳が現存する飛鳥千塚古墳群が存在する。
ヤマト王権が奈良盆地に出現した頃から三輪山は太陽が昇る山、二上山は太陽が沈む山であり、二上山の山の西側は冥界の世界と考えられていた。磯長谷に多くの天皇の陵墓が建設されたのもこのような宇宙観が背景にあると考えられています。
聖徳太子御廟の裏山は聖徳太子墓であり、叡福寺北古墳とも呼ばれています。直径55㍍の円墳に横穴式石室があり、一番奥に聖徳太子のお母さんである穴穂部間人皇女(あなほべの はしひとこうじょ)の石棺があり、その前に左右に聖徳太子と妃であった膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)の漆で出来た棺がおかれていたそうです。母の死の翌年に太子も急死しますが、謎なのはその翌日に妃の膳部菩岐々美郎女もともに死にます。これが、謎だと考えれています。
伝染病なのか、暗殺なのか今となっては判りません。
閑話休題
数年前に京丹後の間人(たいざ)という場所を訪問した事がありますが、この地名の由来は聖徳太子のお母さんが蘇我・物部戦争の時に避難しておられ、戦争が終わり飛鳥に帰るときに地元に自分の名前を与えた事に由来するそうです。現地の人々は、恐れ多く、ハシヒトとは呼べず、此の地を退かれた貴人を慕いタイザ(退坐)とよぶようになったそうです。という、話を、現地で聞きました。
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