新横浜、大倉山周辺の古代地形
新横浜、大倉山付近の古代の地形や歴史について詳しいホームページが有りました。感心して眺めていました。少し、御紹介します。
北側は都筑半島が突出し先端が亀甲岬となっています。現在も亀甲橋が国際サッカー場に向かい架かっています。大倉山梅園や大倉山精神文化研究所、大倉山駅は末吉半島に位置し北側に突き出した部分が太尾岬でした。この半島というか岬を削り出来たのが大倉山駅なのです。
綱島を見下ろす高台、末吉半島には師岡熊野神社や縄文時代の貝塚遺跡が山の上にあります。
貝塚遺跡からは眼下に鶴見川を見下ろせ、対岸に綱島が見えます。昔は本当に島だったのですね。そして、綱島の北には日吉半島が南に突き出しています。其処にも5世紀末頃の古墳が存在しています。
鶴見川は北から南に突き出した都筑半島と南から北に突き出した末吉半島の間を流れている事になります。
鶴見川を挟んで小机城と亀甲岬に陣を引いた太田道灌との『小机の合戦』があったそうです。
参考 『小机の合戦』
亀甲岬には古墳が存在していると思います。
昭和17年頃の新横浜
参考 昭和17年頃の新横浜地形
蛇袋とか養蛙場とか鳥山川と鶴見川が合流する場所は湿地帯だったのですね。雨の季節になると氾濫していたようです。鶴見川の周辺は常に氾濫し、洪水に遭遇する場所だったようです。
太尾という場所は今も残っていますが、昔は常に洪水に遭遇する場所で苦労されたようです。私が大倉山に引っ越したのは35年程前になりますが、その頃でも雨の季節になると大倉山駅周辺から太尾あたりは浸水していました。
地名に大豆戸という明らかに大豆畑が広がる景色の地名が今も残っています。そして、鶴見川河口から15キロ、新羽橋から新横浜あたりまで海水が押し寄せるので、田圃の灌漑用水として鶴見川は利用出来なかったそうです。満潮時に河口から新横浜あたりまで強い満潮の潮の動きで川崎宿や綱島の遊郭から下肥を船に積み新横浜あたりの農民に売りさばいたそうです。
今も太尾新道には江戸時代の御鷹捉飼場の記念碑が残っています。
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