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スペイン・ポルトガル3200㌔の旅(43) サンテイアゴ・デ・コンポステーラ 散策

 承前 スペイン・ポルトガル3200㌔の旅(42) サンテイアゴ・デ・コンポステーラ 歓喜の丘

 遂に巡礼の終点であるサンテイアゴ・デ・コンポステーラの街に到着です。

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 キリスト教の三大聖地だそうですが、何故こんなヨーロッパ大陸の西の端の鄙びた場所に聖地を持って来たんでしょうか。エルサレムやバチカンは判りますが、何故、この欧州の辺境の地に聖地があるのか、昔から疑問です。

 キリストの弟子の聖ヤコブの墓が此処にあるという設定が何故必要だったのか、不思議なんです。彼はエルサレムで断首され、殉教する訳ですが延々と地中海を航海しジブラルタル海峡を抜け北上しこんな鄙びた地に遺骸を運搬するのは少し無理があるような気がしています。

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 伝説では9世紀に羊飼いが此の地で聖ヤコブの墓を発見した事になっています。私の今回の紀行を終えて辿りついた結論はイスラムとの戦いに原因があるように思いました。8世紀初頭の頃からジブラルタル海峡を越えてイスラム勢力ウマイヤ朝がイベリア半島に侵攻しイベリア半島はイスラムの勢力下に置かれ300年近く支配されたのです。

 私はどうしてもキリスト教文化圏にとりレコンキスタは悲願だったと考えます。イベリア半島の西の端にキリスト教の聖地を置く事でイスラムのイベリア半島支配に楔を打ち込む戦略だったのではないでしょうか。事実、失地回復運動のレコンキスタは8世紀から15世紀にかけて行われ、1492年のグラナダ陥落で終結したのです。

 マイフォト サンテイアゴ・デ・コンポステーラ 写真集

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 巡礼証明書を発行する場所で実際に巡礼を行った人々が奉納した杖でおどける同行の山本さんです。(笑)昔の巡礼は、杖と水筒の役目のヒョウタンと、お皿の代用品である帆立貝を首から下げ、つば広の帽子(魔女が被るような)を被り、マントで身体を覆い巡礼したそうです。多分、行き倒れるとこの杖が墓標となったのでしょうね。まるで、四国88カ所巡礼と同じですね。

 巡礼に世の東西は変わらないのですね。

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