三星堆文明と古代の日本の共通点(その1)
久しぶりに、昔の『謎の古代王国』(三星堆遺跡は何を物語るか) 徐朝龍さん、NHK取材班 NHK出版(1993年2月)を再読していたら、日本の古代と古代の蜀(三星堆遺跡)との共通点を幾つか気になり出したので、メモを認めておきます。
先ず、長江文明についての基礎知識が必要です、以前に何回かメモを残していますので、参考にして下さい。
1.養蚕に優れた国だった
・四川盆地は温暖湿潤であり桑の育成と蚕の生育には最適な環境であった。伝説の古代蜀の最初の王は蚕叢(さんそう)と呼ばれる養蚕の技術を伝えた王と考えられる。絹織物特に蜀錦と呼ばれ、国の財政を支えた。
・この蜀錦は雲南(昔は滇王国が存在)経由のインドやベトナム方面への陸路がシルクロードとして存在していたらしい。このルートで蜀錦は膨大な利益を得たという。時代は夏や殷の時代から、黄河流域とは異なる独自の文化・文明が開化していた。
・この養蚕を伝えた蚕叢(さんそう)という初代王は遊牧民であり、盆地の在地の女と結合し国を開基したと伝説は語るようだ。当時の黄河文明(殷王朝)から観ると四川盆地の人々は蜀という甲骨文字にイメージが表現されていると言う。中国の字書『説文解字(せつぶんかいじ)』によれば、文字を分解すると、上は目であり、下は虫でどうやら蚕を飼っている人々という意味らしい。説明では、『蜀、葵中虫也』(蜀とは葵の中に住む虫の事である)と説明し、葵とは中国最古の辞典『爾雅(じが)』によれば、桑の俗であるそうだ。目玉と蚕が蜀という漢字だそうだ。更に、『中象其身蜆蜆(字の中の部分は曲がった虫の姿である)』と述べる。
・三星堆遺跡から出土する奇怪な青銅の仮面、縦目仮面(目玉が飛び出て大きな耳を持つ巨大青銅仮面)は蜀という漢字の目の部分を特に強調しています。色んな仮説があるが、神殿の高い場所に飾られていたのではないか、『千里の目、順風の耳』を表現しているとの仮説が有力である。千里の先を見通す目と風に乗って遠方まで聞こえる耳を持つ神の姿である。
・この蚕叢の伝説と似た話が日本にもあります。古代最大の渡来系氏族である秦氏であります。京都の太秦には蚕の神社があり、元糺の杜と呼ばれ秦氏の京都における本拠地でした。秦氏は桓武天皇を自分の館を京都御所として明け渡し遷都に貢献、葵祭りは本来は御所とこの元糺の杜で行われていた。この葵祭りの葵は本来、桑の木を意味していたと解釈できないでしょうか。秦氏の本業は養蚕でしたね。
・蚕の神社は正式には木島坐天照御霊神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
と呼ばれ、太陽信仰であります。太陽信仰と言えば、三星堆文明もそうでした、高さ4㍍もある青銅製の『神樹』が発掘されたからです。此れは扶桑の樹と呼ばれ、太陽が昇り下る神樹で、遥か東方海上に扶桑の樹が存在し、そこから太陽は鳥により天空に運ばれ運行すると考えられていました。中国の人は古代から東の海上に存在する倭国(日本)を扶桑の樹が存在し太陽が昇る神仙世界と観ていたようです。
・聖徳太子の右腕であり経済産業を支えていたのは秦河勝でしたね、太子が隋王朝の天子に宛てた親書『日出づるところの天子云々』の文言は当時の世界の常識である扶桑の信仰を踏まえて書かれ特に中国を侮辱した文言ではなかったでしょうね。秦氏や小野氏(和邇氏・春日氏)という渡来系氏族が中国人の世界をよく知りつくしていたと思います。
参考 元糺の杜 京都魔界巡礼
2.灌漑土木工事に優れた国
・古代蜀の伝説の二番目の王は柏灌(はつかん)という王でした。これらは、『華陽國志』に記載されているそうです。柏は実は四川盆地では常緑樹であり日本の檜に似ているそうで、鬱蒼と茂り四川盆地といえば、柏の森だったそうです。次の灌の字ですが、成都市の西50㌔に灌県という場所があり、今は都江堰(とこうえん)市と名前は変更されている。
・岷山山脈と三星堆を結ぶ直線の中途にあり山脈から激しく流れ落ちる岷江に堰や堤を築き四川盆地を洪水から防ぎ同時に50万ヘクタールの田畑を潤したといいます。史記『河渠書(かきょしょ)』によれば、戦国時代に秦の王が派遣した太守、李冰(りひょう)がこのダムを完成させたと記録するが、古代蜀の時代から土木工事がなされていたと想定され、二代目王の名前に灌漑土木工事に成功し豊かな農業を達成した王の名前に灌の字を使用したと考えられる。
・又、秦氏に戻りますが嵐山の渡月橋に立ち上流を見れば『葛野の大堰(おおい)』を見られた方々が多いと思います。秦氏は桂川(葛野川)や鴨川の氾濫により使い物にならなかった京都盆地を灌漑土木工事により田畑を開墾し遂に遷都まで実現させた訳です。蜀の国の伝説そのものではないでしょうか。
・そういえば、成都から九塞溝に向かう途中で四川大地震の現場を通過した経験があるが、そこに羌族の村落を多く拝見した経験がある。御存知、羌族は氐族とともに殷の時代は奴隷として神への生贄にされた民族ですが、伝説の夏王朝や殷を倒し周王朝を建設したのは羌族であると考えられていますね。その、夏王朝の創始者は禹と呼ばれる王ですが、彼は蜀の羌族出身であると羌族の間では伝説となっています。
・殷の時代に黄河流域で奴隷にされた羌族や氐族は南に逃れ蜀の国に避難していた可能性が高いです。彼らは本来は遊牧民ですね。
次回に続きます・・・・・
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