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タニハ(丹波)は独自の王国だったか(1) 出雲と越に挟まれて

 最近、丹後(丹波)王国論で有名な門脇禎二さんと考古学の森浩一さんの対談集『古代史を解く鍵』を読んで、知らない事が多く、気がついた事を記憶に留める事にした、是非、丹後半島を歩いてみたと感じた次第です。学生時代、ワンゲルの先輩と一緒によく丹波の山を歩いた記憶があります。しかし、その頃は此のタニハの地が雄大な歴史を秘めた場所である事を知らなかった。

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 出雲圏と越の国圏に挟まれた但馬、丹波・丹後、若狭の領域は森さんも、門脇さんも独自な文化圏を持つ領域であると考えている。西は城崎温泉で有名な場所に注ぐ円山川流域、即ち豊岡の但馬の国から、東は由良川流域までの地域を指している。

 この日本海に突き出た半島、丹後半島はまさに大陸に向かって止まり木のような形状ではないだろうか。寒い冬、北風とリマン海流に乗って簡単に朝鮮半島や大陸から船は日本列島に到着する。出雲から越の地域はまさに、大陸に向かった開かれた窓であった。その真中に位置するのが但馬・丹後・若狭ではなかっただろうか。

 昨年、12月に京都のMuBlogの旦那と継体天皇の陵墓と考えられる今城塚を訪問したが、その時に安満宮山(あまみややま)古墳も訪問した、青龍3年(235年)銘の方格規矩四神鏡が出土した古墳である。この青龍3年銘の方格規矩四神鏡が実は最初に丹後半島で出土していました。太田南5号墳と呼ばれる古墳です。(地図に印を入れましたので参照下さい)

 竹野川の流域は弥生時代から大いに開けた場所であるようです。大陸との交易を行った船が行き来した湊であったようです。現在は峰山と呼ばれる場所です、その場所が卑弥呼の時代に既に大陸と交易をする栄えた場所であった。門脇さんの説では、丹波(丹後)王国は最初は竹野川流域である峰山地域で栄えそして、4世紀後半から5世紀の最盛期には野田川中流域の蛭子山古墳や作山古墳のある地域に移ったと言います。

但馬・丹波・丹後・若狭の地域で有名なのは、浦島太郎の伝説と羽衣伝説、そして、あめのひぼこ(天日槍)伝説ではないでしょうか。

 ・羽衣伝説と伊勢神宮

 昨年、久しぶりに伊勢神宮を参拝したがその外宮でお祭をするのは豊受大神(とようけのおおかみ)ですよね、彼女は丹波から伊勢に招聘されたのです。この豊受大神というのは天女で帰り遅れたばかりに、老夫婦につかまり老夫婦の為にお酒を作る技術を教えたり、金銀財宝を与えたのですが、最後に捨てられるのです。そして、奈具社という所に籠る事になりました。

 実は、丹波には地元の女神さんが存在していたのです。大宮売神社で祀られてる女神さんで、神社の近くに大谷古墳というものがあり、女性が埋葬されていたそうです。どうやら、弥生時代からの女神さんのようです。新しく来訪した天女の神様はどうやら、地元の女神さんに追い出され、伊勢神宮の外宮に放り出された事になります。

 この話は、実はヤマトでの天照大神が地元の神である大物主神から追い出された話と似ていませんか。ヤマトから追い出されたアマテラスと丹波から追い出された羽衣さん(豊受大神)が仲良く伊勢で暮らす事になるのです。

門脇さん、森さんの話では外宮の神はアマテラスの為に食事を用意する神として考えられているが、それは、丹波の地が大陸からの財宝が豊富な国であった事に起因していると述べておられました。

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