タニハ(丹波)は独自の王国だったか(4) タニハの都の変遷
承前 タニハ(丹波)は独自の王国だったか(3) 竹野潟湖復元と遺跡群
タニハ(丹波)の国は竹野潟湖の湊により栄える事になるが、先ず都として栄えたのは竹野川を遡上した現在の峰山盆地で栄えた。そして、4世紀末から5世紀の最盛期の頃には更に南の野田川中流域の大宮町・加悦町の盆地に移行したと想定され多くの遺跡群が残っています。
(竹野川下流部遺跡群地図)
(竹野川中流部遺跡地図)
・初期のタニハの都
タニハの王国は海岸部の潟湖付近に王国を象徴する神明山古墳や銚子山古墳が築かれ、船で航海する人々にタニハの権威を誇示したと考えられる。そして、初期には竹野川下流域・中流域に都が築かれたと考えられる。その頃の中心はタニハの地名が残る峰山付近が中心であったと想定されます。
・大宮売(おおみやめ)神社と大谷古墳
ヤマトで言えば、三輪山の神、大物主さんに相当するのがタニハでは大宮売神(おおみやめのかみ)であり女神である。神社の近くに小さな古墳(大谷古墳)があり女性を埋葬した遺跡として有名である。この神とその後、豊受大神と呼ばれる今来の女神が奈具社を中心に権勢を誇る事になる。しかし、最後はヤマトの天照大神と同様に、タニハを追い出され伊勢神宮の外宮に祀られる運命にありました。
大宮町には弥生時代の小さな墳丘を持つ古墓が多く存在し、例えば、三坂神社古墓群や左坂古墓群からは沢山のガラス玉が発掘され大変な騒ぎとなった。全部あわせると、7千から8千にもなると森浩一さんは『古代史を解く鍵』で門脇さんとの対談で述べています。
奈具岡遺跡からは弥生時代中期の玉造遺跡があり、緑色の凝灰岩に加え、当時としては珍しい水晶の玉を製造していた。これらは、祭祀用に製造されたものと考えられ流通商品としての製造工場であった可能性がある。
・弥生時代の高地性集落
扇谷遺跡、途中ヶ丘遺跡は2キロも離れていない距離にある巨大な二重の濠を持つ長さ1キロの内濠に囲まれた高地性集落が存在する。
・太田南5号墳
高槻の継体天皇の陵墓である今城塚の近くの高台にある安満宮山古墳(あまみややまこふん)と同じく青龍3年銘の年号が鋳られた方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)が出土している事で有名、此方の古墳から最初に見つかった。邪馬台国時代の魏の年号であり、おおきな注目を浴びた事で有名です。
この古墳の直ぐ上の2世代か3世代程度古いと考えられる方墳から画文帯環状乳神獣鏡(龍鈕である事が特徴である)が出土し、後漢の鏡でありこの古墳群に埋葬された一族は後漢の頃の鏡から魏の時代の鏡まで数世代を通じて保持していた事になります。古墳は小さいけれども、大きな勢力を持っていた一族ではないだろうか。
森さんの話では埋葬の仕方が4つも存在し、ヤマトの埋葬方法と決定的に異なると指摘があり、タニハの独自性が強調されてる。
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