タニハ(丹波)は独自の王国だったか(3) 竹野潟湖復元と遺跡群
承前 タニハ(丹波)は独自の王国だったか(2) 紀年銘銅鏡の出土
タニハ(丹波)の国は主に竹野潟湖(たかの せきこ)と竹野川(たかのかわ)の水運による恵みである。竹野川河口域は少なくとも6世紀や7世紀の頃までは潟を形成していた。上記グーグルアースに表示した竹野潟湖の推定復元は『古代の日本海文化』(中公新書)藤田富士夫さんに従い記録したものです。
森浩一さんの話では日本海の古代遺跡は潟を中心として海運で栄えたという論を展開されてる事は有名です。藤田さんの復元によれば、巨大な竹野潟湖が存在していたのです。古代の船は木造船です、海水に浸かっていると直ぐにフナ虫に侵され、船が航行出来なくなるそうです。従い、海に注ぐ川を遡上し船を停泊させたのです。しかし、大規模な船を遡上させる川は少なく、先ずは潟が湊として機能を始めた。
・竹野遺跡
河口右岸には、標高5㍍前後の砂丘帯が竹野川の流れを遮り、その上に竹野遺跡が存在する。1986年の発掘調査で弥生前期、古墳前期、古墳後期の遺跡が検出され、発掘された。特に弥生前期の遺構からは陶塤(とうけん=土笛)の出土がありました。中国で流行した土笛で、西日本の弥生前期の遺跡からは出土するものです。楽器であり又、祭祀に使用されたと考えられ、大陸文化との交流を物語るものです。
古墳前期の古式土師器は畿内の影響は殆ど無く、伯耆・因幡との関係が深いと考えられる。この直後に巨大な神明山古墳の築造が始まり竹野遺跡が文化の中心となる。
・大山(だいせん)墳墓群
竹野川が潟湖に注ぐ入口の左岸丘陵上に弥生中期後葉から後期に方形台状墓、木棺墓、土器棺などが合計37基営まれた。
・神明山古墳(しんめいやまこふん)
古墳前期末葉に竹野潟湖の東の丘陵に巨大な神明山古墳が築造された。墳丘長190㍍と想定され、潟湖の海岸線と平行に建造され白い葺き石で覆われており、航行する船からは目印となったと考えられ、ランドマークタワーであった考えられている。墳丘から出土した埴輪片からはヘラ描きで船を漕ぐ人物像が描かれ航海民と関係が深い人物が埋葬されたと想定されている。
参考 京丹後市立古代の里資料館
・産土山(うぶすなやま)古墳
古墳時代中期、河口を見据えるかのように建造された古墳が産土山古墳である。直径50㍍の大円墳である。凝灰岩製の長持形石棺が発掘された。ヤマトではこの形式の石棺は大王クラスのものであり、この地域の大王に相応しい人物の墳墓であると考えられる。又、この古墳の近くで潟湖の傍に片山古墳があり、現在横穴式石室を観る事が出来る。
海に突出した台地先端には13の円墳からなる大成(おおなる)古墳群があります。古墳後期の6世紀末葉から7世紀前半に築造され、横穴式石室を持ちます。
・地域の中心 竹野(たかの)神社
神明山古墳のすぐ側に竹野神社が鎮座しています。潟湖に堤防を築き参道を作り竹野遺跡の台地まで続いています。参道は松の並木が並び、荘厳な雰囲気を作っています。航海の安全を人々は祈った場所だと考えられます。
竹野潟湖周辺では弥用時代前期から人々が集落を形成し始め古墳時代には巨大な古墳を建造し延喜式内社の航海安全の神社も建造する地位を築いた。
古墳時代後期になると潟湖ではなく、日本海側に大成古墳群が形成され始めたのは、直接的に海に対峙する姿勢が芽生えたからかも知れない。
潟の東には依遅ヶ尾(いちがお)山が540㍍の綺麗な円錐形で聳え、西には大山(おおやま)212㍍が聳え海上から良い目印となっていた。
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