タニハ(丹波)は独自の王国だったか(2) 紀年銘銅鏡の出土
承前 タニハ(丹波)は独自の王国だったか(1) 出雲と越に挟まれて
銅鏡に中国の年号が鋳されている銅鏡を紀年鏡と呼んでいます。今まで発掘された銅鏡の中では、青龍3年(235年)銘銅鏡は方格規矩四神鏡であり、3面(丹波の太田南5号墳、高槻の安満宮山古墳、出土地不明)出土しています。景初3年(239年)銘銅鏡は三角縁神獣鏡である神原神社古墳(島根県加茂町)と平縁神獣鏡である和泉黄金塚古墳から出土。
魏では存在しない年号だが、景初4年(魏では景初3年で終わり、次の年は正始元年の筈)銘の斜縁盤龍鏡2面即ち、丹波の広峰15号墳出土と出土地不明鏡1面がある。
正始元年(240年)銘銅鏡は三角縁神獣鏡3面が出土している、即ち、竹島御家老屋敷古墳、蟹沢古墳、豊岡即ち但馬の森尾古墳から出土。
地図で発掘された遺跡に赤い印をつけましたが、但馬と丹波で3面、紀年銘銅鏡が出土しているのです。これ等の銅鏡が本当に魏の国で製造されたものかどうか議論のある所だそうです。
従来何故、景初3年銘や正始元年銘の年号が注目されるかは、卑弥呼と関係が深いからです。邪馬台国の卑弥呼が初めて魏に使いを出したのが、景初3年であり大夫の難升米(なしめ)と次使の都市牛利(としごり)を送った。正始元年には帯方郡から魏の使者が倭国を訪問し詔書や印綬を下賜した。その後、邪馬台国は狗奴国と戦争状態になり魏は黄幢を難升米に与えたりしているが、正始8年(247年)頃に卑弥呼は死ぬ。
邪馬台国を考える上で如何に景初3年、正始元年、等々の魏の年代が重要であるか判りますね。そんな大事な紀年銘の鏡が不思議と但馬・丹波で3面も出土しており、且つ、不思議なのは丹波には巨大な古墳が存在するのに、比較的小さな古墳で出土しているのが謎となっている。
森さんは、魏鏡である事に疑いを持っておられますね。理由は幾つかあるようです、例えば太田南5号墳で出土した青龍3年銘銅鏡では『顔氏作鏡』(注:鏡では漢字の簡略化が行われ鏡の漢字は金を省略している)とあり、魏の鏡では顔氏という制作者銘は存在しないらしい。(陳氏・張氏・周氏、王氏・朱氏は存在)
そもそも、魏では銅鏡に年号を鋳る事例が存在しないと発言されています。又、不老長寿を願う鏡なのに、『八子九孫治中央』と神仙思想とはかけ離れた銘文が鋳られている事に魏で製造された事に疑問を投げかけておられます。
森氏が指摘しているのは、紀年銘がある遺物が出土した時に無条件でその年代の遺物であるという認識をしたり、その国で製造されたと考えるのは科学的でないと主張されているんです。例えばとして、日本の中世の遺跡、特に堺からは唐の時代の開元通寶の鋳型が出土し、多量の室町時代に製造した唐の時代の開元通寶の銭が出土してるそうです。
門脇さんの話では、青龍3年銘銅鏡が出土した太田南5号墳のすぐ上の方墳から2~3世代は古いと想定される古墳から後漢の画文帯環状乳神獣鏡が出土している事に注目し、綿々と太田南5号墳及び周辺の古墳群に埋葬された人々は中国との交易を行っていた海の豪族ではないかと推論しておられます。
森さんの話を纏めると、中国製であろうと、国内製であろうと但馬・丹波を地盤にした豪族達は年代という事に敏感で年代という事を知っていた人々ではないだろうかと推論。当時は、昔々ある所に・・・云々という、いい加減な時間軸しか持ち合わせていなかった列島の人々とは異なり、ちゃんと、時間軸、暦の重要性を認識した優れた人々であったと解釈しておられます。
閑話休題、森さんの話では卑弥呼が魏に使者をたてた時の難升米とは儺国(奴国)の升米という名前の王かそれに相当の人物ではないかと推論。又、都市牛利とは伊都国の市を管理する牛利という名前か、伊都国でなくても都の市を管理する経済閣僚ではないかと推論されているようですね。
参考 私の遺跡グーグル
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