継体天皇(ヲホド王)の縁の地を訪ねる(7) 安満宮山(あま みややま)古墳
承前 継体天皇(ヲホド王)の縁の地を訪ねる(6) 今城塚古墳
三島という場所はどうやら邪馬台国の時代から栄えていた場所のようです。今城塚古墳の東北方角に弥生時代の環濠集落跡である安満遺跡があります。そして、丘の上には邪馬台国時代に卑弥呼が魏に使いを出し銅鏡百枚を貰ったという年が239年ですが、235年、魏の年号で青龍三年銘のある銅鏡(方格規矩四神鏡)が出土した古墳、安満宮山(あま みややま)古墳があります。
この古墳は平成9年夏に発掘され5面の青銅鏡が出土したが、その中に含まれていた。丁度その3年前に平成6年には丹後の国、今の弥栄町と峰山町の境にある太田南5号墳でも同じ青龍三年銘の方格規矩四神鏡が出土していた。邪馬台国を考える上で日本海ルートの丹後の国と淀川水系・河内湖・瀬戸内海ルートの摂津の三島は重要な地域であった事を物語っている。
写真のように眼下には弥生時代から環濠集落として栄えた安満遺跡を眼下にに見る場所で、一辺20㍍の長方形墳が発掘された。3世紀後半の遺跡であると考えられ邪馬台国時代に相当する。5面の銅鏡が出土したそうだが、古いタイプの三角縁神獣鏡も含まれているそうだ。その他、スカイブルーのガラス小玉1600個も出土したという。
この古墳に埋葬された人物は明らかに眼下の畿内では最初に九州から稲作を導入し栄えた安満遺跡を統率し、淀川水系を利用し琵琶湖、瀬戸内海航路から大陸との交易も支配した人物が眠っていると想定される。
実にこの場所に立てば判るが、遥か大坂湾まで見はるかす事が出来る。
左の奥の山は生駒山で、左の煙突から煙の奥は淀川で、その奥が継体天皇が即位された樟葉の宮。その右が私が生まれ育った招堤村です。
眼下は安満遺跡(環濠集落跡)であり、遠方のビル群は浪速の街であります。
生駒山の右方向には二上山が見えるそうですが、今日は見えませんね。しかし、何と眺望が開けた場所ではないでしょうか。眼下の築紫津や枚方の津や樟葉の津、山崎の津なども一望できたのではないだろうか、其処には2本マストを掲げた大陸との貿易船が夥しい数停泊していたと考えられます。それが、邪馬台国時代から継体天皇の時代まで綿々と継続されていたと思います。
参考 安満遺跡関係ブログ
参考 太田南5号墳関係ブログ
MuBlogの旦那さん、本当に有難う御座いました。次回も宜しくお願いします。
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