継体天皇(ヲホド王)の縁の地を訪ねる(6) 今城塚古墳
承前 継体天皇(ヲホド王)の縁の地を訪ねる(5) 今城塚古代歴史館
継体天皇の陵墓と殆どの研究者が考える今城塚古墳を参拝してみましょう。天皇陵で足を踏み入れる事が出来る陵は多分、此処だけではないだろうか。宮内庁では近くの太田茶臼山古墳を継体天皇陵と指定しているが、研究者の間では5世紀中葉の建造と考えられ継体天皇の時代よりかなり古い時代の古墳と考えられています。
和田萃(わだ あつむ)さんの説では継体天皇の曾祖父の大郎子(おほいらっこ)であり、オホホド王と呼ばれる人の墓ではないかと推論されています。継体さんは小さいと言う意味のヲホド王と呼ばれています。ちなみに、ホドとは火床の事であり製鉄する場所や人々を指す言葉だそうです。そういえば、筒城宮も多々羅(タタラ)=製鉄という地名に存在していました。
蛇足ながら、この三島と呼ばれる淀川右岸の地域はヤマト王権が成立した頃から独立した経済豊かな地域でヤマト王権の支配地域では有りませんでした。勿論、木津川流域や山背・近江地域もそうです。何故なら、ヤマト王権の大王墓に匹敵する巨大古墳が同じ時期に存在するからです。
蛇足のついでに、興味深いのは神武天皇が橿原の宮で即位されますが、皇后さまに撰んだのは確か三島のヒメ・タタラ・イスズ・ヒメではなかったでしょうか。三輪の大物主さんが三島の豪族の娘に産ませた子供です。要は奈良盆地や河内ではなく摂津(淀川右岸)の豪族と政略結婚しなければヤマト王権が成立出来なかった事を示している。
今城塚古墳参拝はマイフォトで記録しましたので、そちらを参照して下さい。
マイフォト 継体天皇の陵墓か 今城塚古墳参拝記 写真集
古墳北側の内堤上に展開する埴輪祭祀場の埴輪群と背景は古墳本体である。
埴輪祭祀場の第4区の埴輪群です。武人と馬と白鳥の列が並び最後に力士像が並ぶ。
第3区の巫女集団が中心の埴輪群です。祭祀用の建物や大王の印の楯が並んでいます。継体天皇の葬送儀礼・即位儀礼・治世風景、等々議論がなされています。詳しくは過去の記事を参照して下さい。
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Comments
今回の小旅行では「三島」という地名の重さをJo解釈でよく分かりました。
さらに。
思いの外広い摂津のうち、この高槻茨木あたりが往時そうとうに栄えていたというか、巨大豪族がいたのだと知りました。
関西だけでも、三輪・磐余以外に、葛城とか佐保とか、さらに木津川あたりの大古墳とか、そうして枚方・樟葉、で淀川右岸に大勢力が居た。歴史は難しいですなぁ。
(わすれておりました、近江にもいろいろ居なすった)
Posted by: Mu | 2011.12.30 07:17 AM
Muの旦那さん もう今年も終わりですね
今回の帰省では偶然に継体天皇の縁の地を歩く事になりました。Muの旦那の運転で黙って座っておれば今城塚古墳でした、本当に有り難い話です。
古代史は本当に難しいですね、知らない事ばかりです。森浩一さんが常におっしゃるけど、現地を見なければ判らない、自分の金で動かなければ駄目だという話、納得です。
三島には築紫津という湊が存在したそうですね、何で九州の名前があるんやろ?疑問ですよね。あの、三輪山の大物主さんでも、この三島の豪族の娘を味方にしなければ奈良盆地を支配出来なかった訳です。
江戸時代まで淀川左岸の枚方(ヒラ潟)は摂津の国に属していたそうですよ。樟葉もひょっとすると摂津だった可能性もあります。要は摂津とは港(湊)で栄えている国という意味ですよね。当時は木造船、フナ虫が怖いので湊は全て真水の川を遡った場所か海岸なら潟を湊としたそうです。
当時は河内湖が巨大でした、三島地方や淀川上流地域から木津川流域・宇治川流域(巨椋池)・桂川右岸地域、沢山の湊が存在し、洛東江流域の弁韓・辰韓その後の伽耶諸国の鉄鋌を満載し湊に入港して栄えていたのでしょう。
そうそう、次回は近江富士でしたね、楽しみです。
Posted by: jo | 2011.12.30 08:22 AM