継体天皇(ヲホド王)の縁の地を訪ねる(5) 今城塚古代歴史館
承前 継体天皇(ヲホド王)の縁の地を訪ねる(4) 筒城宮跡&同志社大学歴史資料館
さて、今回の最後の旅は今城塚古墳です。京都のMuBlogの旦那の運転と案内で訪問出来ました。私が生まれ育ったのは京阪牧野駅とJR片町線(現在は学研都市線)長尾駅の中間地点です。継体天皇が即位した樟葉宮は隣の村で、木津川を遡上すれば筒城宮、淀川を挟んで向かい岸は高槻となり、今城塚古墳や太田茶臼山古墳が存在します。
現在、宮内庁では太田茶臼山古墳を継体天皇陵と指定していますが、考古学会では明らかに5世紀築造と考えられる太田茶臼山古墳は継体天皇陵と認める事は出来ない。今城塚古墳の発掘により現在では殆どの考古学者や古代史歴史学者は今城塚古墳を継体天皇陵であると認めているのが現状である。
いずれは、宮内庁も天武・持統合葬陵を野口王墓に変更した歴史がありますので、今城塚古墳が継体天皇の陵墓に指定されると思っています。今のうちです、天皇陵に入れるのは。
この今城塚古墳の発掘については以前、記事を詳細に記録しました。最新の今城塚古墳に関する内容は記録した積りです。
参考 『継体天皇の時代徹底討論 今城塚古墳』 高槻市教育委員会
今回は先ず、『今城塚古代歴史館』のご紹介です。詳細はマイフォトの写真集で記録しましたので、そちらを参照下さい。
マイフォト 『今城塚古代歴史館』 写真集
今城塚古墳に葺き石工事をしてる場面です。エジプトのピラミッドは切り石(立方体)を積み上げて行く工法ですが、マヤ・アステカもそうですが、日本の古墳では版築で土を固め最後に葺き石を行います。
円筒埴輪に2本のマストを持つ海外交易出来る大形の帆船が描かれ、継体天皇の時代の三島には沢山の貿易船が湊に停泊していたと思われます、その風景を線刻しています。
古墳からは三種類の石棺の破片が出土しました、二上山白石の石棺と兵庫県高砂産の竜山石の石棺、そして、何と阿蘇、熊本宇土産の阿蘇ピンク石の石棺破片が出土しました。従来倭王権の大王は二上山の白石か竜山石を使用するのが通例です。しかし、はるばる熊本の阿蘇ピンク石を石棺として使用していました。
最近、実験考古学として阿蘇から有明海を経由し瀬戸内海を経由して、6トン以上の阿蘇ピンク石を筏で高槻まで運ぶプロジェクトがありましたね、覚えておられますかね。その石が此処にあります。
今城塚古墳発掘の成果の第一はこの130点以上の埴輪が出土した北側内堤の埴輪祭祀場の遺跡です。1区から4区まで区別されるが、現在も論争中であるが、継体天皇の葬送儀礼の様子説・継体天皇即位儀礼の様子説・継体天皇治世の様子説と意見はわかれています。
次回は、古墳でこの埴輪が再現されているので、理解がし易いかも知れません。
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