海の中道遺跡メモ 『福岡の古代を掘る 太宰府から海の中道へ』
今年の9月に京都のMuBlogの旦那と築紫・肥前の国紀行をしました、その時に博多から金印の志賀島に出かける時に長く伸びた砂州、『海の中道』を通過して往き来しました。実はこの砂州『海の中道』の丁度真中あたりの場所にシオヤ(塩屋)鼻という玄界灘に少し飛び出た場所があり、その東500㍍あたりに奈良時代から平安時代にかけての集落の遺跡が発掘されました、此れを『海の中道遺跡』と呼び、朝日新聞社より1992年10月に『福岡の古代を掘る 太宰府から海の中道へ』(葦書房)として刊行された。
・最初の発掘
1979年から81年にかけて九州大学考古学教室と福岡市教育委員会で三回に渡り発掘調査された。8世紀後半から11世紀(奈良・平安時代)にかけての遺跡である事が判明していた。竪穴住居址や製塩土器、釣り針などの漁具のほか、漁民の所有物としては不釣り合いの越州窯の青磁、青銅製かんざし、銅製の帯金具、皇朝12銭などが出土した。
従い、太宰府と鴻臚館(こうろかん)との関連があるのではないかと注目を浴びた。特に、役人の食事や大陸からの使節の料理に使う海産物の調達・加工・保存などを一手に引き受けた津厨(つのみくりや)跡ではないかと指摘する考古学者も現れ、にわかに注目される遺跡となった。ただ、遺跡の1割にも満たない部分の発掘であり今後に期待された。
・本格的発掘
1990年9月から本格的な発掘が始まった。出土遺物は以下
-越州窯青磁の破片三片、製塩土器片15点、地表には土師器のおわんや土器片が無数
-平安時代初期の製塩用の炉跡 散乱する製塩土器片より10世紀はじめの頃
-2号炉と呼ばれる炉跡も発掘され整然と炉の周辺に貝塚が並び組織的に炉の運営がなされていた事が判明した 滑石の石鍋も発掘
-東調査区ではもっぱら魚をさばいたり、煮炊する加工場であり、西調査区は製塩作業に従事する専門化された場所である事が判明した。
-東調査区で発掘された灰釉(かいゆう)陶器の耳皿(箸置き)が出土し、身分の高い官人が持ち込んだ可能性が高まった
-薬壺形の陶器の小壺が発掘された。これは決定的な遺物と考えられる。釉薬を塗られた小壺は当時、愛知県・猿投山(さなげやま)南西部にある猿投山窯群でしか製造されていない灰釉の陶器であり祭祀用の特注品である事が判明した。
当時朝廷では航海の安全を祈る祭祀を国衙や特別な祭祀場でこの小壺を使用して実施していた。福岡県・沖の島遺跡では白・緑・褐色の奈良三彩の薬壺型小壺(8世紀から9世紀)が20個程度出土。又、久留米市の筑後国府跡では須恵器の薬壺型小壺(8世紀前半)が数個見つかっている。
ー砂の下から真水涌く これで集落の人々が生活出来る事が判明した。真水の理由は玄界灘方面からと博多湾の両方から砂州に海水が浸透してるが、比重の軽い雨水の真水は海水の上に蓄えられる事となったと考えられている。
-役人の腰帯の飾り石が出土 当時の役人がベルトに石を何個も取り付けていた。「石銙(せっか)」と呼ばれるものです。
-平安時代に使用された銅鏡『唐草双鳳八稜鏡(からくさそうほうはちりょうきょう)』である。身分の高い人が使用する銅鏡である。
-鉄製毛抜き、釣り針、石製紡錘車、皇朝12銭三枚、 とうとうも出土した。
以上より、太宰府直属の厨戸(くりやべ)の集落跡であるという結論が出た。厨戸とは津厨の下で海産物を生産した漁民たちの事で厨戸の集落跡が発掘されたのは初めてであった。
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