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『謎の古代豪族 紀氏』 メモ記録(1)

 メキシコ紀行中にホテルや飛行機の中で『謎の古代豪族 紀氏』(和歌山県文化財センター編 清文堂)を興味を持って読んだ。直ぐに忘れるので、メモを残しておく。

 平成9年11月に和歌山県文化財センターが設立されて10周年という事で記念講演と基調講演そして討論会が開催されその時の内容が本として出版されたものである。基本的には水野正好さん中心の記録である。

 1.銅鐸の分布

 ・紀の川河口域、所謂、紀北の地域では古い時代の小さい銅鐸が多数出土する。それに対して、新しい時代の巨大な銅鐸は紀南の御坊市や日高町、南部川村では非常に大きな飾り立てられた新しい銅鐸が出土する。

 ・ヤマト王権は紀の川の河口の港津(紀伊津=徳勒津 トコロツ)が重要と考え銅鐸を配布した。ヤマト王権にとり難波津と紀の川河口津は最重要な港であった。小さな銅鐸は広島県・島根県・香川県・福井県・愛知県というヤマトを囲む地域に配布されている。

 ・時代が過ぎ、新しい大きな銅鐸が配られる頃は紀北ではなく、紀南に一斉に集中して配られこの南紀と対岸の阿南・土佐即ち紀淡海峡を背景に大きな銅鐸が配られた。又、同時にこの大きな銅鐸は愛知・静岡・長野県に配られ三河遠江という地域です。

 ・水野さんは銅鐸とは農耕儀礼で使用された祭器ではなく、水軍の軍楽器であったと考えているようです。何故なら、銅鐸が出土する地域には港湾はあるが美田は存在しないからである。水野さんの考えでは、銅鐸は軍船の船団が出撃したり帰還した時に打ち鳴らされたものではないかと推論する。

 ・関東・甲信越地方の兵隊や物資を浜名湖の港や名古屋港に迎え入れ船団を組み、ヤマト王権の指示で紀淡海峡に集結させ此処から九州や朝鮮半島や大陸に向かい出撃したのではないかと考える。又、紀淡海峡地域は船材となる「舟木」が豊富に伐採出来るところで楠が中心で沢山の軍船の建造を可能にした地域である。北部の紀の川の河口である徳勒津から南紀にかけて数多くの河口が存在し港が多数存在する事でこれらが軍港として利用された。

 ・水野さんは卑弥呼の時代から東海地方ー名古屋。浜名湖の港と、難波津と、紀の川河口の徳勒津・南紀の港を大事にしたのではないかと考えている。残りの三重県の安濃津、福井県の敦賀津の合計5港が重要な軍港であったと考えている。

 ・古来一番重要であった港は難波津と河内潟でした、この河内潟に流れ込む川が数多く存在しその河口に港が発達していた。日下江(くさかのえ)、豊浦(とようら)、若江(わかえ)、菱江(ひしえ)、蓼津(たでつ)、桑津(くわづ)、猪飼津(いかのつ)、玉造江(たまつくりのえ)などが河内潟に面して港を形成していた。満潮時には大坂湾の海水が流れ込み、干潮時には河内潟の水が難波海に流れ出て行き、それに合わせて船を操作したという。

 ・しかし、問題は大和川や淀川が多量の土砂を河内潟に運び込み、堆積し、河内潟を埋め尽くし、河内潟が港として機能が危なくなり始めたのが応神・仁徳朝の頃ではないだろうか。大陸・半島からスペシャリストを招聘し、羽曳野台地に船を管理する船氏、使節が運んで来た文書を管理する西文氏(ふみし)、津の管理をする津氏、蔵を管理する蔵氏、運搬を担当する馬氏、といった専門職の渡来人を此の地に集中的に移住させる政策がとられた。

 ・同様に、紀の川河口の徳勒津でも河内と同じように渡来系の専門職の人々を移住させ港に付帯するあらゆる仕事をさせていた。副港として紀の川河口は位置していた。しかし、河内潟は年年土砂が埋まり、深刻な問題が生まれ始めていた、そこで、副港の紀の川河口流域が注目されるようになり紀氏が注目を浴びるようになりました。大活躍の飛躍の時が来たのです。

 2.大阪湾岸の開発

 ・紀氏を語る時に最重要な人物は武内宿祢(たけのうちすくね)です、紀氏の女性である影姫と孝元天皇のひ孫の屋主忍男武雄心命(やぬし おしお たけお こころ)が結婚し生まれたのが武内宿祢で、名前(たけのうち)から葛城で生まれたと思われる。

 ・葛城の地は交通の要

 葛城から南下すると橋本にでるが此処まで紀の川の水運は通じていた。江戸時代でも船が河口から此処まで航行できたそうだ。一方地上では水越峠を西に越えると富田林市の龍泉を通過し石川へでたり、羽曳野に出る事が出来る。又、葛城から道を北に取れば、北葛城の王子から、二上山を越えて河内に至る道を整備した。葛城は大和・河内・紀伊を繋ぐ要の位置にいる事が判ります。

 ・武内宿祢の子供である葛城襲津彦の時代には朝鮮半島。大陸から多くの渡来人を招聘しテクノクラートとしての人材を抱え、葛城に渡来人の居住区をどんどん作り、勢力を拡大して行きました。葛城氏は元来が紀氏であり葛に住居する紀氏という意味かも知れない。仁徳天皇以降の河内王朝の皇后は全てこの葛城氏からでることになります。

 ・そういえば、仲哀天皇が熊襲の反乱鎮圧に軍船をだしたのも徳勒津でしたし、陵墓も藤井寺市の『津堂城山古墳』として葛城・紀氏は建造し、以後、河内王朝は河内の地に王陵を築くことになる。

 ・仲哀天皇が亡くなると、武内宿祢は応神天皇の摂政のような立場になり、都を難波の上町台地の『難波大隅宮』を建造し大陸との交易を政治と富と利益の源泉とする交易国家として大和王権の方向をリードして行きました。

 (続く・・)

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