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ベトナム縦断1800キロの旅(25) 中部編 ホイアン 日本人町の記憶

 承前 ベトナム縦断1800キロの旅(24) 中部編 ホイアン 日本橋夜景編

 ホイアンには日本人町の記憶が残された場所が有ります。博物館のようになっていますのでご紹介。京都の町屋と殆ど同じ作りでウナギの寝床で、坪庭も有ります。税金が間口の幅で決まっていたのでそうなったようですが、ベトナムではハノイでも今でもウナギの寝床の建物が多いです。朱印船からは多量の日本の銅貨が持ちこまれ、ベトナムの貨幣として利用された歴史が、今も残っています。ベトナム貨幣がドンと呼ばれるのは、銅貨(ドウ)という日本語がルーツだそうです。

 日本には『茶屋船交趾渡航貿易絵巻』というものが残されています、そのコピーがホイアンの現地で展示されていました。

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 ホイアンの港に朱印船が到着し、タグボート(当時は30名程度の水子(カコ)が漕ぐボートが三隻で湊で誘導しています)で牽いています。長い長屋のような建物は日本人の建物だそうです。

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 トゥーボン川河口の上流では象が働いています、川の中の水牛の角には鳥が止まっています。のどかな田園風景です。河口の湊には日本人町があり、ヒョウタンが棚に実っている風景が描かれています。

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20116vieatnum_1061  茶屋新六郎が慶長17年(1612年)に交趾国の国王に貢物をしている風景が描かれています。尾張の茶屋家は家康から三代に渡り朱印状を賜りベトナムとの貿易を行った豪商です。二代目が茶屋新六郎であり彼が、ベトナム国王に貢物をしています。尾張の茶屋家の菩提寺は情妙寺でありこの絵巻は奉納されました、筒井町の近くです。

20116vieatnum_1062  茶屋新六郎の朱印船がトゥーボン川の湊に到着した図です。やはり、家康は尾張の海人である茶屋氏を撰んだのでしょうね。問題は菩提寺の近くが筒井町と呼ばれる事が気になります。ベトナムとの交易では佐賀県の有田と深い関係があり父のルーツである有明海の武雄の河口で大陸との貿易を行っていた先祖と関係が気になります。

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20116vieatnum_1069  17世紀初頭の国際貿易港としては堺でした。堺では写真左二枚が示すようにベトナムから輸入された陶磁器が出土しています。そして、日本からは佐賀県の有田焼が貿易品として多量に持ちこまれたようです。私の父の佐賀の本家では江戸時代から大陸貿易で栄えたと記録がありこの朱印船と関係が深いのかも知れません。有明湾から貿易船が裏庭まで繋留できたそうです。

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メキシコ紀行(2011年秋)(12) メキシコシテイ篇(12) 国立人類学博物館マヤ編

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(11) メキシコシテイ篇(11) 国立人類学博物館アステカ編

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 マヤ館にはどうしても実物を見たいパレンケ遺跡『碑文の神殿』から発掘されたパカル王の『翡翠の仮面』を見る為に訪問しました。

地図はメソアメリカの遺跡をグーグルでプロットしました。中央に、パレンケ(Palenque)がありますね。

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 615年から683年の長期の期間、パレンケの王として君臨しました。翡翠はグアテマラで産出されたそうです。世界でも日本の縄文時代から古墳時代まで姫川の翡翠は大王の威信財として珍重された歴史があります。そして、不思議な魔力があると信奉されていたのは、メソアメリカも同じなんですね。

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 腕にも指にも翡翠が輝いています。世界広しと言えども日本とメソアメリカだけが不思議と翡翠を信仰の対象としたと思います。

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 この翡翠の珠をみて下さい、驚きです。

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 パレンケの『碑文の神殿』で発掘されたパカル王の石室の再現です。

 マイフォト メキシコ国立民族学博物館 マヤ館 写真集

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ベトナム縦断1800キロの旅(24) 中部編 ホイアン 日本橋界隈夜景編

 承前 ベトナム縦断1800キロの旅(23) 中部編 ホイアン 日本橋

 日本橋界隈の夜は観光客も集まりとても賑やかです。

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 運河には沢山の船とまるで海の『ねぶた祭り』のような光景です。

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 17世紀初頭の頃はこのように世界中から船が集まり賑やかな国際都市だったと思います。

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メキシコ紀行(2011年秋)(11) メキシコシテイ篇(11) 国立人類学博物館アステカ編

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(10) メキシコシテイ篇(10) テオティワカン 食事その他

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 メキシコシテイを訪問するなら、必ず訪問しなければならない箇所の一つとしてメキシコ国立民族学博物館があります。今回は時間の関係でアステカ館とマヤ館のみの参観となりましたが、先ずはアステカ館からメモを残します。

 詳細は、マイフォトで写真とともに記録をのこしましたので、そちらを参照して下さい。

 マイフォト メキシコ国立民族学博物館 アステカ館編 写真集

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ベトナム縦断1800キロの旅(23) 中部編 ホイアン 日本橋

 承前 ベトナム縦断1800キロの旅(22) 中部編 ホイアン ミーソン遺跡(5)

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 ホイアンの『来遠橋』通称は『日本橋』と呼ばれています。ホイアンは古い街並みが世界遺産に指定されていますが、この『日本橋』は一番重要な建物として保存されています。

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 この橋は関ヶ原の戦いの7年前、1593年に日本人により建造されました。当時、2千人程度の日本人が駐留していたと言われています。日本人は古来、海の民として東南アジアの海域では時に倭寇となったり、時に正式な日本国の貿易船として各地で貿易をしていました。

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 これはベトナム紙幣2万ドンですが、この『日本橋』が印刷されています。ベトナムが誇る世界遺産の一つなんですね。そんなものを日本人の先祖が貢献した事に誇りを感じます。

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 秀吉の頃から倭寇対策として朱印状を与えた公式の日本の貿易船が東南アジアに展開していたようですが、家康が1604年から積極的に朱印状を発行し1635年まで350隻の朱印船が東南アジアに渡航したといいます。

 当時のベトナムは、北部ハノイは安南国、中部のダナン・ホイアンは交趾国又は広南国と呼んでいた。チャンパは南の方に追いやられ、占城国と呼ばれている。ともかく、朱印船は安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム、パタニ(マレー半島)等々に出かけて行き交易を行った。家康の財政を支えた国際貿易でありました。

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 こんな風に太鼓橋になっています。屋根があり中国風も取り入れています。

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 橋の真ん中に祠堂があります、『来遠橋』と扁額が掲載されています。

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メキシコ紀行(2011年秋)(10) メキシコシテイ篇(10) テオティワカン 食事その他

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(9) メキシコシテイ篇(9) テオティワカン ジャガーの神殿

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 テオティワカンのレストランです。昔の人はこんな格好してたんでしょうか。我々の世代では青春の頃、テレビでは沢山の西部劇を放映していました。確かこんな格好でしたね。北米大陸の遊牧民はこんな格好でパオ(テント)で生活していたんでしょうね。

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 このオジサン、サボテンに生息するカイガラムシを潰して絵具として赤を出しています。

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 これがサボテンに生息するカイガラムシです。コチニールカイガラムシと呼ばれる虫で赤の色素として利用されます。

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 龍舌蘭は開化期になると茎を取り外し窪みを作ると今迄蓄えたデンプンの糖化が起こり甘い液体が窪みに満々と満ちる。これを甘味料として利用したり、発酵させると先史時代からメキシコの人が飲んでいるプルケという酒になる。蒸留するとテキーラやメスカルと呼ばれる酒になるんですよ。

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 此れは龍舌蘭から採れる紙であり糸も採集出来ます。グアダルーペの聖母像が描かれたマントもこの龍舌蘭から採取された紙から出来ています。

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海の中道遺跡メモ 『福岡の古代を掘る 太宰府から海の中道へ』

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 今年の9月に京都のMuBlogの旦那と築紫・肥前の国紀行をしました、その時に博多から金印の志賀島に出かける時に長く伸びた砂州、『海の中道』を通過して往き来しました。実はこの砂州『海の中道』の丁度真中あたりの場所にシオヤ(塩屋)鼻という玄界灘に少し飛び出た場所があり、その東500㍍あたりに奈良時代から平安時代にかけての集落の遺跡が発掘されました、此れを『海の中道遺跡』と呼び、朝日新聞社より1992年10月に『福岡の古代を掘る 太宰府から海の中道へ』(葦書房)として刊行された。

 ・最初の発掘

 1979年から81年にかけて九州大学考古学教室と福岡市教育委員会で三回に渡り発掘調査された。8世紀後半から11世紀(奈良・平安時代)にかけての遺跡である事が判明していた。竪穴住居址や製塩土器、釣り針などの漁具のほか、漁民の所有物としては不釣り合いの越州窯の青磁、青銅製かんざし、銅製の帯金具、皇朝12銭などが出土した。

 従い、太宰府と鴻臚館(こうろかん)との関連があるのではないかと注目を浴びた。特に、役人の食事や大陸からの使節の料理に使う海産物の調達・加工・保存などを一手に引き受けた津厨(つのみくりや)跡ではないかと指摘する考古学者も現れ、にわかに注目される遺跡となった。ただ、遺跡の1割にも満たない部分の発掘であり今後に期待された。

 ・本格的発掘

 1990年9月から本格的な発掘が始まった。出土遺物は以下

 -越州窯青磁の破片三片、製塩土器片15点、地表には土師器のおわんや土器片が無数

 -平安時代初期の製塩用の炉跡 散乱する製塩土器片より10世紀はじめの頃

 -2号炉と呼ばれる炉跡も発掘され整然と炉の周辺に貝塚が並び組織的に炉の運営がなされていた事が判明した 滑石の石鍋も発掘

 -東調査区ではもっぱら魚をさばいたり、煮炊する加工場であり、西調査区は製塩作業に従事する専門化された場所である事が判明した。

 -東調査区で発掘された灰釉(かいゆう)陶器の耳皿(箸置き)が出土し、身分の高い官人が持ち込んだ可能性が高まった

 -薬壺形の陶器の小壺が発掘された。これは決定的な遺物と考えられる。釉薬を塗られた小壺は当時、愛知県・猿投山(さなげやま)南西部にある猿投山窯群でしか製造されていない灰釉の陶器であり祭祀用の特注品である事が判明した。

  当時朝廷では航海の安全を祈る祭祀を国衙や特別な祭祀場でこの小壺を使用して実施していた。福岡県・沖の島遺跡では白・緑・褐色の奈良三彩の薬壺型小壺(8世紀から9世紀)が20個程度出土。又、久留米市の筑後国府跡では須恵器の薬壺型小壺(8世紀前半)が数個見つかっている。

 ー砂の下から真水涌く これで集落の人々が生活出来る事が判明した。真水の理由は玄界灘方面からと博多湾の両方から砂州に海水が浸透してるが、比重の軽い雨水の真水は海水の上に蓄えられる事となったと考えられている。

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メキシコ紀行(2011年秋)(9) メキシコシテイ篇(9) テオティワカン ジャガーの神殿

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(8) メキシコシテイ篇(8) テオティワカン 太陽のピラミッド続編

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 神官クラスのくらいの高い人々の館ではないかと考えられています。遺跡は発掘され修復が進んでいます。壁のコンクリートは築造時のものが所々残っています。

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 写真は残っている壁のコンクリートの部分です、紀元後1世紀の頃にコンクリートは発明されていたんです。

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 ジャガーの神殿と呼ばれる理由はこの壁画にあります。ジャガーが法螺貝を吹いています。雨乞いの儀式だと考えられています。ジャガーが羽飾りを被っていますね、多分、神官がジャガーの衣をまとい羽飾りを被り、法螺貝を吹いていたんんでしょうね。法螺貝なんて、日本の山伏見たいです。

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 上部に描かれている羽飾りのようなものは何なのか今だ不明だそうです。

この建物は地下の宮殿へと繋がっています。複雑な構造ですね。

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 地下宮殿です、花の模様が柱に描かれ、基壇にはオウムが描かれています。口から雨を吐き出しているそうですが、私には判りません。

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 オウムの拡大写真です、口から何か出ていますね。雨だそうですが・・・。

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ベトナム縦断1800キロの旅(22) 中部編 ホイアン、ミーソン遺跡(5)

 承前 ベトナム縦断1800キロの旅(21) 中部編 ホイアン、ミーソン遺跡(4)

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 ミーソン遺跡では観光客の為にチャンパの踊りが披露されていました。

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 アンコールやタイで見学した踊りと殆ど似ています。やはり、同じ文化圏なんでしょうか。女性が指を反対側に曲げる仕草は同じではないですかね。

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 聖なる山、ミーソンを背景に美しく又激しい踊りを観賞できました。

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 崩壊の危機にあるミーソン遺跡、世界遺産としてどれだけ世界中の人々が協力して守れるか、戦場となった遺跡だけに人間の英知が試されています。

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メキシコ紀行(2011年秋)(8) メキシコシテイ篇(8) テオティワカン 太陽のピラミッド続編

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(7) メキシコシテイ篇(7) テオティワカン 太陽のピラミッド

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 『太陽のピラミッド』頂上での撮影です、背後は『月のピラミッド』です。

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 南の方角にあるケツァルコアトルの神殿が見えます。テオティワカンでは一番重要な農業と文化の神さんです。羽を持つ蛇神さんで、ユカタン半島のチェチェンイッツアー遺跡を見学した時はマヤの人々はククルカンと呼んでいました。

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 結構凄い勾配ですよね、けどそんなに怖くはないです、誰でも登れます。

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 頂上には本来、神殿が存在したのですが今はその姿は有りません。

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ベトナム縦断1800キロの旅(21) 中部編 ホイアン、ミーソン遺跡(4)

 承前 ベトナム縦断1800キロの旅(20) 中部編 ホイアン、ミーソン遺跡(3)

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20116vieatnum_884  遺跡内のある祠堂の中が遺物の展示室となっています。ミーソン遺跡で残存している遺物を集めて展示しています。

何とか、グエン朝との戦争や米国とのベトナム戦争をくぐり抜けて残存した貴重な遺物です。

写真右は我々には馴染の千手観音ですが、ヒンドゥー教ではシヴァ神、ヴィシュヌ神、ドゥルガー神の異名だそうです。元はヒンドゥー教なんですね。

左は苔むしていますが、アプサラ(天女)だと思います。

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20116vieatnum_885  沢山の塔か祠堂の天頂に載っていた石像物でしょうか。蓮の蕾のようなデザインですね。

左は顔が削られていて、判別不能ですがアプサラだと思います。

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20116vieatnum_887  左は、空を駆ける天女(アプサラ)でしょうね、日本の仏教寺院でもよくみかける、羽衣をまとう天女と同じだと思います。

右は展示室(祠堂)の内部写真で、格子窓を撮影しています。連珠の模様はアンコールでもタイでも皆さん同じ模様の格子窓です。

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20116vieatnum_895  左はヒンドゥー教の最高神であるシヴァ神です、周りに神々を従えていますね。

右はヒレ(羽衣)を纏っていますので、天女(アプサラ)だと思います。

何れも建物の一部に設置されていたと思います。

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20116vieatnum_894  左は背のスラットした彫刻ではないですか。

両足を揃えて立っていますね、それにしても美しい石像彫刻だと思います。腰巻のようなスカートから男性の神ではないでしょうか。

それにしても、頭部は何処なんでしょう、世界中から探せば出てくる可能性はあると思います。

右の彫刻は、獅子(ライオン)像ではないかと思いますが、良く出来ていますね。

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メキシコ紀行(2011年秋)(7) メキシコシテイ篇(7) テオティワカン 太陽のピラミッド

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(6) メキシコシテイ篇(6) テオティワカン 死者の大通り

 次はクフ王のピラミッドの底面積と同じ規模である『太陽のピラミッド』に登りましょう。

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 高さ65㍍もあります、正面が西方向(死者の大通り方向)を向いています。これは巨大ですが、登れます。

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 皆さん登っています。

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 エジプトのピラミッドは大きなサイコロみたいな巨石を積み上げて行きますが、テオティワカンでは自然石を積み上げ表面は日本の前方後円墳のように葺き石で覆います。石の隙間はコンクリートのようなもので充填しています。

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 眼下、左右に走る道は『死者の大通り』です。

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ベトナム縦断1800キロの旅(20) 中部編 ホイアン、ミーソン遺跡(3)

 承前 ベトナム縦断1800キロの旅(19) 中部編 ホイアン、ミーソン遺跡(2)

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 聖なる山『マハーパルヴァタ』(美山)これが遺跡の名前になりました。写真の遺跡の塔の後に控える山がそうです。

 この山は貿易航海民にとり海から格好の標識になった山だそうです。当時は沿海航法ですから、山は航海の目印でした。海人が山を崇拝する習慣がありますが、航海と深い関係があると考えています。グエン王朝が北のフエ、ダナン湊で栄える前はトゥーボン川河口即ちホイアンが最大の国際貿易港でした。しかし、この河口も河内潟、河内湖と同じように砂で埋まり港としての役目を終えたのがこの王朝の運命でした。

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 女神の像の顔がありませんが、何とか全体像が判る程度に祠堂が残っています。

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八頭身の美人のようですね、アプサラでしょうね。

アンコールの遺跡の像よりは立体感があり素晴らしい作品だと思います、本当に早く修復しないと消えてゆきそうです。

国際的な援助がなされてると思いますが、世界遺産として守らなければと思いました。

アプサラの像関係をもう少し探しましょう。

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20116vieatnum_872   此れは石像ですね、石に彫られたアプサラの像だと思います。

両手を挙げて梁を支えています、顔は皆さん異なり人種も違いますね。

とっても可愛いです、早く保存してやらないと可哀そうだと思います。ベトナムで道路や橋を作る援助だけでなく、もっと文化財を守る協力援助をしてあげれないのでしょうか。

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メキシコ紀行(2011年秋)(6) メキシコシテイ篇(6) テオティワカン 死者の大通り

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(5) メキシコシテイ篇(5) テオティワカン 『月のピラミッド』

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 聖山『セロ・ゴルド』山頂と『月のピラミッド』の頂上はぴったり合います。やはり三輪山と大物主の世界を思い出す光景です。この『月のピラミッド』に関しては、前回ご紹介した杉山三郎氏の1998年6年間の発掘記録を読めば詳しく理解が出来ると思います。

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 紀元後100年頃から400年頃にかけて7回、増築されたピラミッドは上空から見ると前方後方墳に見えます。これは、私だけの見方でしょうか。杉山さんはどない考えておられるんでしょうね。多分、欧米の考古学者は考えもしないでしょうね。これは明らかにユーラシアの遊牧民に共通の積石墓の系譜を引くモニュメントだと思います。

 埋葬されていた2体の王と思われる遺体には、世界では日本とメソアメリカにしか存在しない翡翠を使用した威信装飾品である耳飾り、ビーズ玉、マヤ人のみが使用するペンダントが発掘されている。

 ピラミッドは何回も増築され、その度に生贄が埋葬されたたようです。彼らはこの地方の人々ではなく他の地域の戦争で捕虜になった高貴な人々であった可能性があるようです。4世紀頃、後手の状態で首を落とされた生贄の頭蓋骨が17個も発掘されているんですね。歯には翡翠が埋め込まれていたといいますから、高貴なマヤ人の可能性が高いです。

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 『死者の大通り』で見かけたある神殿の壁画です。夜の王者であるジャガーだと思います。マヤの遺跡でも多くのジャガーの絵画や彫刻が残されています。

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ベトナム縦断1800キロの旅(19) 中部編 ホイアン ミーソン遺跡(2)

承前 ベトナム縦断1800キロの旅(18) 中部編 ホイアン ミーソン遺跡(1)

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 ミーソン遺跡が見えて来ました。チャンパ王国時代の聖なる場所だったようです。近世にはグエン朝に滅ぼされた時とベトナム戦争では米軍の空爆により遺跡は壊滅的な破壊を受けたという。フランス統治時代の写真が残っているので、ベトナム戦争以前の状況は概略把握できるそうだ。

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 本遺跡は世界遺産なのでユネスコ関連のホームページで詳細は勉強出来ます。

 参考 UNESCO My Son Sanctuary ホームページ

 参考 Global Heritage Fund 『My Son』

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 痛みが激しく塔が傾いていますし、草が壁面に生えています。早く修復しないと本当にこの遺跡は消えてゆく危機にあるのではないだろうか。

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 煉瓦作りの聖なるヒンドゥー教の建物が崩壊の危機にあります。世界遺産というより、危機遺産ではないでしょうか。4世紀から13世紀(UNESCOホームページ)にかけての建物群です。

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箱根から三島大社を歩きました(箱根西坂)

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 11月14日(月曜日)同期の三島に住む浦川さんの誘いで、1年後輩で昔職場が一緒だった松林さんと三人で箱根から三島大社(箱根西坂)を歩いてきました。

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 同期の浦川さんは、学生時代ワンゲルの経験が確かあった人だと思います、健脚でした。

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 是より京都へ100里、400キロ、是より江戸25里100キロと表示が有ります。此れは何時頃の石でしょうかね。

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 箱根の旧街道、江戸古道を登った時は羊腸小径(羊の腸のように曲がりくねる筒の中を歩く感じ)でしたが、此処も笹竹が作る円筒状の筒の中を歩くのです。

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 と思えば、石畳の素晴らしい杉並木の道です。

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メキシコ紀行(2011年秋)(5) メキシコシテイ篇(5) テオティワカン 『月のピラミッド』

 承前 メキシコ紀行(4) メキシコシテイ篇(4) テオティワカン 序論

 壮麗な三輪山のような山の麓にあり『死者の大通り』の終着点であり始発点である重要な場所にあるピラミッドが『月のピラミッド』です。何回も増築されたように思われます。

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 『死者の大通り』から『月のピラミッド』を見上げる。

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 急な階段を登ります、これが意外に急な階段です。

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 真下を眺めると眼下に中央の祭壇の基壇のようなものが『死者の大通り』の真中に存在しています。そして、左右に幾つかのピラミッドが控えています。この眼下の広場が重要な場所ではなかったでしょうか。

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 真っ直ぐ南方向に5キロも続く『死者の大通り』です。まるで、大極殿から真南に走る朱雀大路のように思われます。事実、構造はそうなっています。左前方に巨大なピラミッドが見えますが、あれが『太陽のピラミッド』です。

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 右の方角にも幾つかの小さいピラミッドが並んで控えています。生贄の儀式はピラミッドの上で行われ、心臓を取り出された死体は階段下にけり落とされたと言います。アステカの王都のピラミッドでは毎日200人以上の生贄の心臓が神に捧げられピラミッドの階段や道路は血の匂いが充満していたそうです。

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メキシコ紀行(2011年秋)(4) メキシコシテイ篇(4) テオティワカン(Teotihuacan)序論

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(3) 奇跡のマント、グアダルーペ教会

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 メキシコシテイ訪問は第一に、このテオテイワカン(Teotihuacan)遺跡を訪問する事でした。メキシコシテイ北東50キロに位置し紀元前2世紀から紀元後6世紀までアメリカ大陸では最大の20万人の人口を抱えた最大の都市の宗教センターだった場所です。

 15世紀の初めの頃に北米から南下してきた遊牧民であるアステカ人(自分たちをメシーカ、メヒコと呼んでいた此れが現在のメキシコの国名の由来)は巨大な湖テスココ湖の西の小島に都市を築いた、これがテノチティトラン(現在のメキシコシテイ)である。彼らは北東50キロの高地に存在する巨大なピラミッドと都市址を発見しその文化・文明の偉大さに驚嘆し、この場所を『神々の都市=テオティワカン』と命名した。

 従い本来この場所が何と呼ばれたか、誰の国だったのかも判っていない。文字が残っていないので、解明が出来ないのだ。

 『遺跡概要』

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 三輪山のような大きな美しい姿の山の南麓に『月のピラミッド』と呼ばれるピラミッドがどかんと鎮座する。そのピラミッドから幅20㍍程度の朱雀大路(『死者の大通り』と呼ばれる)が南に向かい5キロも一直線で走っている。この道路を挟んでシンメトリカルに色んな神殿や建造物が並んでいる。

 実はこの朱雀大路は真北を向いていない北東に15度振っており、色んな仮説が今まで論議されて来た。

 この大路の大極殿にあたる『月のピラミッド』の足元には左右に幾つかのスモール神殿を抱えている。

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 朱雀大路の東側にこの遺跡では最大のピラミッド『太陽のピラミッド』が聳えている。この神殿を除けば『月のピラミッド』を最北の終端として綺麗にシンメトリカルに築造された宗教都市に見えるのだが、この『太陽のピラミッド』が一人でこの秩序を壊しているように見える。

 この『太陽のピラミッド』の地下には人類の起源の地と伝説がある「チコモストック」を想起させる7つの洞穴が枝状に繋がって存在しているそうだ。この遺跡の謎を解く鍵はやはり『月のピラミッド』と『太陽のピラミッド』ではないでしょうか。

 私の遺跡をみた第一印象は聖なる山の麓に山の神を祭る神殿を建造し、其処から南に5キロの聖なる道路を引き都市を建設したと思います。所が、メキシコでは山を崇拝する信仰が存在しないと言われてる。確かにメキシコでは山に名前が無い事が多いのだ。日本では考えられないです。しかし、私は未だ諦めていません、一番重要な農業と文化の神であるケツァルコアトル(羽を持つ蛇=ユカタン半島のチェチェンイツァ遺跡のマヤ文明ではククルカンと呼ばれている。)は蛇神でありどうしても三輪山が浮かんでくる。

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『死者の大通り』から『月のピラミッド』を眺める。背後に綺麗な三輪山のような山が控える風景。

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ベトナム縦断1800キロの旅(18) 中部編 ホイアン ミーソン遺跡(1)

 承前 ベトナム縦断1800キロの旅(17) 中部編 フエ、ティエンムー寺・カイデイン帝廟

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 ベトナム中部のグエン王朝が栄えたフエを後にして南下し、紀元前から海洋国家として栄えたマレー系の古チャム族が栄えたホイアンを訪問しましょう。紀元前から考古学の世界ではサーフィン文化と呼ばれ甕棺墓を使用するルソン島や中国東シナ海沿岸、南朝鮮・九州の古代の人々と類似する海人の世界です。

 

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今回は4世紀から13世紀まで栄えたチャンパ王国の聖地であるミーソン遺跡を訪問します。ホイアンに注ぐ大河トゥーボン河を遡上した川に囲まれた渓谷のような場所にあります。

 チャンパ王国と日本との関係については過去に何回も記事を書きました、遣唐使である平群広成の帰路の漂流によるチャンパ到着と殺害されそうな彼を救援した、阿倍仲麻呂のドラマチックな話です。

 参考記事 平群広成の大冒険(2009年6月12日記事)

そしてチャンパは幾度となくアンコール王朝と戦争を繰り返しました。ともにインド文化・文明を強く影響を受けた王国でした。チャンパはヒンドゥー教の国です、その聖地がミーソン(美しい山)なのです。

  参考 チャンパとアンコール王朝との戦争 アンコール遺跡の旅(その3)

 2005年に日本の協力により遺跡展示館が完成し、遺跡を訪問する前に予め基礎的なミーソン遺跡の知識を得る事が出来ます。

 参考 チャンパの聖域 ミーソン遺跡展示館 写真集

 参考 甕棺墓の仲間達

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古代海人族と鹿の深い関係

 以前に弥生時代の土器に描かれた線刻画について記事を書きました。弥生中期の頃から急に弥生土器に鹿が数多く描かれるようになり、且つ、銅鐸にも鹿が多く描かれるようになりました。単に獲物として、狩りの対象として鹿が描かれているのではない事に気が付きます。

 参考 弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(その1)(2011年9月4日)

 参考 弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(その2)(2011年9月5日)

過去の記事で、弥生時代から突然に鹿の猟が激減し、卜占で肩甲骨を利用されるとか神事で使用される特別な存在になった話を記録しました。

今年、京都のMuの旦那と九州を一緒に旅をしましたが、その時に金印で有名な志賀島を訪れ安曇族の元締めの神社である志賀海神社を訪問した。其処では、鹿の角を収蔵した蔵(鹿角倉)が存在していました。海人と鹿の角はどのような関係か気になりましたが、特に神功皇后の鹿狩りの行事と関係があると話は聞いていた。この神社に願いをかけて成就すると板に鹿の角を揃いで結びつけ海神に捧げる為に海に流すそうだ、そして近くの海岸に漂着した鹿の角をこの倉に収納しているそうです。

 先日、大倉図書館で借りた本、『鹿と鳥の文化史(古代日本の儀礼と呪術)』平林章仁、白水社、を読んで特に海人と鹿との密接な関係で気になる部分のメモを残したいと思います。

 『海人と鹿猟』

 『日本書紀』では允恭天皇14年の記事として、陸上での狩猟でも海人の助けが無ければ成功しない主旨の記事がある。天皇が淡路嶋で狩りをした時に鹿を始め獣が沢山存在するのに全く狩りが成功しなかった事がありました。理由は淡路嶋の神さん(多分、イザナギの神だと思います、彼は淡路嶋で亡くなっています)が自分に明石海峡の海の底の真珠(しらたま)を捧げれば狩りは成功すると述べる。

 允恭天皇と言えども海人の助けが無ければ陸上での狩猟が成功しない事を述べた例です。結果は阿波国の長邑の海人であるオサシが海底に潜り大アワビを獲得し真珠を得るが彼は力尽き死んでしまいます。天皇の狩猟が海人と深い関係がある事の事例です。

 『肥前国風土記』でも海人の狩猟の話が記録されている。長崎県五島列島に値嘉嶋の海人(白水郎)は多くの牛馬を飼育し容貌は南九州の隼人に似ており、常に騎射を好み言語も俗人と異なると言う。五島列島の海人は漁業だけでなく牧畜や騎馬に優れた人々であった事を述べている。鹿を海に追いこんで狩猟する事も彼らの得意だそうだ。

 『尾張国風土記』逸文では、海人の鹿崇拝の記事を記録している。聖武天皇の時代に岐阜県羽島市、当時は葉栗郡川嶋村の川嶋神社の神が白鹿と化して出現したので、同社を天社としたという記録。川嶋村から木曽川を下ると海部郡海部郷に至る。此処を本拠とした海人が信奉した神社が川嶋社である。

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メキシコ紀行(2011年秋)(3) メキシコシテイ篇(3) 奇跡のマント、グアダルーペ教会

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(2) メキシコシテイ篇(2) ソカロ広場とカテドラル

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 (旧グアダルーペ教会です、地盤沈下で傾いています)

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 (新しいグアダルーペ教会で2万人収容可能です)

 カソリックの人々の世界では超有名な教会がメキシコシテイにあると言います。カソリックの世界では三大奇跡とバチカンが認めた奇跡の一つがメキシコシテイに存在するそうです。今若者達で流行している言葉を借りれば、パワースポットと呼べますね。それが、グアダルーペ教会です。

 『奇跡のテルマ(マント)』の話

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 インデイオ(原住民)のフアン・ディエゴが親類の人が病気になり見舞いに行く途中で聖母マリアに遭遇した。その時に聖母マリアからマリアの為の教会を建てて欲しいと頼まれたそうだ。マリアは親戚の病気を治してくれたという。デイエゴは司教にマリアが出現した事やマリアの大聖堂建立の言葉を伝えるが信用されなかった。

 再度、聖母マリアはデイエゴの前に出現し寒季節なのにバラの花を渡し、このバラの花束をデイエゴのマント(ティルマ)に包み司教に見せなさいと言葉を貰った。彼は、バラの花束をマントに包み司教に聖母マリアが出現した証拠を見せに出向いたと言う。そして、季節外れのバラの花束も奇跡であるが、何と、マントの裏には褐色の聖母像が描かれていたという。1531年12月9日の出来事であるらしい。

 1537年バチカンではローマ教皇パウルス3世はこの奇跡を承認し植民地におけるインデイオへの差別迫害を禁止する回勅を発信し、ファン・ディエゴを列聖に推挙したという。褐色の聖母マリアの目にはファン・ディエゴが写っているという話です。

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 この奇跡のマントを神宝とした寺院がグアダルーペ教会ですが、地盤沈下が激しく危険となり、現在は巨大なドーム型の2万人を収容可能な新たなグアダルーペ教会が建造され、毎日何回もミサが行われています。誰でもミサに参加出来ます、祭壇には奇跡のマントが飾られています。身近で観るには地下に入り地下の歩道から褐色の聖母マリアを参拝する事が出来ます。

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 メキシコ独立運動のシンボルとしてこの奇跡のマントの『グアダルーペ聖母像』は掲げられ民族運動の旗となったそうです。ひょっとすると、アステカの女神『トナンツイン』信仰と重層されているのかも知れない。

 

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ベトナム縦断1800キロの旅(17) 中部編 フエ、ティエンムー寺・カイデイン帝廟

 承前 ベトナム縦断1800キロの旅(16) 中部編 フエ、グエン朝王宮跡(3)

 『ティエンムー寺』

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 グエン朝王宮跡からフォン川を遡ると二カ所の遺跡が有ります。一つは1601年に創建された『ティエンムー寺(Thien Mu)』であり、もっと遡上するとグエン朝第12代皇帝『カィディン帝廟』があります。先ずは、お寺からです。

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 日本で言えば関ヶ原の合戦の頃に建立されたお寺です。煉瓦造りで七層八角形の形状をした塔が立ち、高さ21㍍もあります。塔の名前はトゥニャン『慈仁』と呼ばれているそうです。西安の大雁塔を思い出す塔です。

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 フォン川を見下ろす高台に建立され、眺めも水上交通も便利な場所に聳えています。本殿に『霊鷲高峰』という扁額があり調べてみました。霊鷲高峰とはインドにある霊鷲山(りょうじゅせん)という山がありそこで、釈迦が説法した事で有名なんだそうです。

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この寺で有名なのは、1963年6月にサイゴン(今のホーチミン)にて当時のサイゴン政府の仏教弾圧に対してガソリン焼身自殺をした僧が居られました、その僧はこの寺の人だったそうです。当時のニュースは私も記憶に残っています。

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 境内にはジャックフルーツの実が実っていました。この果物は幹に直接出来るので面白いです。

 『カイディン帝廟』

 フランスの植民地時代の第12代皇帝カィディン帝の霊廟を訪問しました。この霊廟は1920年に建造が始まり12年間を費やして建造されたそうです。

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世界遺産に登録された理由は中国風の建築技法と西洋の建築技法が混在する不思議なユニークな建築物であると認められたからだそうだ。

 マイフォト ベトナム、フエ、ティエンムー寺・カィディン帝廟 写真集

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メキシコ紀行(2011年秋)(2) メキシコシテイ篇(2) ソカロ広場とカテドラル 

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(1) メキシコシテイ篇 アステカの王都

 今回はアステカ王国即ちテノチテイトランの中央神殿が存在した場所であるソカロ広場とメキシコの教会の総本山であるメトロポリタン・カテドラル、そして最後にアステカの雨の神と太陽神・軍神の二人を祭った双塔の神殿跡であるテンプロ・マヨールの御紹介です。

 詳しくはマイフォトを参照してして下さい。

 マイフォト メキシコシテイ・ソカロ広場・カテドラル・テンプロマヨール 写真集

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 ソカロ広場の北に聳えるメトロポリタン・カテドラルです。1544年に建造を始め1813年に完成したそうです。基壇はアステカ時代の神殿の基壇を利用し石材はアステカ時代の神殿の石材を利用してスペイン人が建造した。

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 アステカ時代は湖でしたので、地盤は弱く写真でも判るように左右が沈下していますね。

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 黒いキリスト像です。そういえば、銀山の開発で多くのアフリカから奴隷を連れて来た悲しい歴史が有りました。

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 見事なパイプオルガンがありました。

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 ザグラリオ礼拝堂です。

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メキシコ紀行(2011年秋)(1) メキシコシテイ篇 アステカの王都

 承前 メキシコから帰還しました(その1)  その2オアハカ篇

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 さて、現在のメキシコの首都、メキシコシテイの御案内です。人口は1800万人でラテンアメリカ随一の繁栄した都市です。1519年にスペインのエルナン・コルテスにより征服されるまでは、アステカ王国の首都として栄えていた。標高2240メータあり当時はチチカカ湖のようなテスココ湖の中にアステカの王都は築かれていた。

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 当時の名前は、テノチティトランと呼ばれ多くの神殿が立ち並ぶピラミッドが林立する都だったようです。アステカは勢力をユカタン半島まで伸ばし、繁栄を極めた王国だった。しかし、極端に太陽が衰えるのを恐れ、他民族を征服しては捕虜を毎日、太陽の生贄にして夥しい数の生贄を神殿で心臓を取り出す儀式を行っており、毎日数百人の生贄の心臓が取り出され、死体は神殿の上からけり落とされ、階段は血みどろだったという。

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 スペイン人がアステカの王都に侵入した時に、街中には血の匂いが充満していたという。何故そのような狂気の沙汰が行われていたのか、研究者の間でも論争が続いているそうだ。一つ、言える事はグーグルアースの航空写真でも判るように、北米大陸に存在し南下したモンゴリアンの遊牧民は狭い地形に南下し、人々を養うだけの土地が存在しない狭い場所である事が判ります。

 丁度、朝鮮半島の古代史のように満州方面の扶余族や濊や韃靼など遊牧民が大陸から狭い朝鮮半島に南下し地元の原住民と熾烈な戦争を余儀なくされた事情と似ているのではないでしょうか。戦争を行事化し生贄を毎日数百人も太陽に捧げたアステカの狂気は天文学からくる太陽の終末恐怖だけではない、何か、現実的な事情も存在したと説明する仮説に私も魅かれます。

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第12回 『G4の会』温泉と山歩きを楽しむ会 谷川岳

 承前 谷川岳から帰還しました

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 去る10月26日、27日の期間『G4の会』では谷川岳と水上温泉を楽しむ会を開催した。26日早朝7時8分発『とき305』に乗車し上越新幹線にて上毛高原駅で8時27分着、8時32分発のバスに乗り込み谷川岳ロープウエイ乗り場に向かい、9時17分にロープウエイ乗り場到着。残念ながら、当日は雨でした。ロープウエイ乗り場で山の上の状況を問い合わせると、みぞれが降っており氷点下だそうだ。

 とにかく、ロープウエイとリフトを乗り継ぎ天神峠に向かったがやはり、みぞれで視界はゼロ、道はドロドロ、ツルツル、縦走には危険と判断し下山し、ケーブル乗り場から谷川岳の麓を歩き『一ノ倉』まで往復する事にした。これが、正解で、美しい紅葉を楽しみ又、『一ノ倉』では豪快な谷川岳の岩壁を眺める事が出来た。

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 初日は夕方に水上温泉の『ホテル聚楽』に宿泊し、翌朝、再度、谷川岳のロープウエイを利用し天神峠に向かった。二日目は快晴で、見事な眺望であり絶景を堪能する事が出来ました。時間の関係で、縦走は出来ませんでしたが、見事な眺望は満喫し、ケーブル乗り場まで歩いて下山し秋の紅葉の谷川岳を満喫した。

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 恒例により、帰路の途中では水上温泉近くの蕎麦屋さんで打ち上げ会を行い、第12回『G4の会』谷川岳と水上温泉を楽しむ会の無事を祝った。

 マイフォト 第12回 『G4の会』谷川岳と水上温泉を楽しむ篇 写真集(約180枚) 

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『謎の古代豪族 紀氏』 メモ記録(2)

 承前 『謎の古代豪族 紀氏』 メモ記録(1)

 大坂湾岸には難波津、堺津、徳勒津の三カ所の港が整備され、河内潟は土砂が埋まり大坂湾に面したウオーターフロントが活気を呈する事となりました。百舌鳥の地は葛城氏の氏地だそうで、歴代の葛城系の姫が生んだ天皇の陵墓は百舌鳥に建造されている。

 3.港湾の倉庫群

 ・紀伊津(徳勒津)の北の丘陵に鳴滝遺跡があり河口を見下ろす位置にあります。この遺跡からは倉庫群が7棟、(各棟は百ヘーベ近い)発掘された。此れは港に必要な蔵であり、船団の往来に必要な物資が格納されていたと考えられる。

 鳴滝遺跡に関しては以前、同じく海外旅行中に読んだ宮崎市定さんの『古代大和朝廷』を参考にして下さい。

 難波津でも大阪城の南の地で16棟の倉庫群が発掘されている。鳴滝遺跡は仁徳天皇の跡を継いだ履中天皇前後、即ち5世紀前半、一方、難波津の倉庫群は5世紀後半の雄略天皇の頃と考えられている。

 4.大伴氏との連携

 ・紀氏は難波津、住吉津を拠点とし大陸の政策を担当していた大伴氏と強いきずなで結ばれていた。河内王権ではまさに大伴・紀(葛城)氏の時代でありました。しかし、継体・安閑・宣化時代に大伴氏は朝鮮半島政策に失敗し没落します。それと共に紀(葛城)氏も没落したと考えられます。安閑・宣化時代には欽明朝と並立したという仮説もあり、大伴・葛城に代わり蘇我氏が欽明朝の政策集団として台頭してくるのです。

 ・紀氏は紀の川河口域や南紀の地元に地盤を築いた紀直氏と都にでて王権の側近で活躍した紀臣の二つに分かれてゆくのです。我々が馴染の紀貫之は都で活躍した紀臣側の人材ですね。

5.紀の川河口の古墳群

 ・岩崎千塚古墳群は紀伊風土記の丘にありますが、密集群集墓としては日本一ではないでしょうか。本格的には5世紀末か6世紀初めに建設されるが、横穴式石室が日本に導入される時期でもあり渡来系の人々の墓であると推測されている。

 ・車駕之古址古墳(しゃがのこし)、全長110メータ墳丘の全長が86メータの前方後円墳があります。此処で出土した、「囲み型埴輪」と金製の「勾玉」が著名であり朝鮮半島製ではないかと推測されている。

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『謎の古代豪族 紀氏』 メモ記録(1)

 メキシコ紀行中にホテルや飛行機の中で『謎の古代豪族 紀氏』(和歌山県文化財センター編 清文堂)を興味を持って読んだ。直ぐに忘れるので、メモを残しておく。

 平成9年11月に和歌山県文化財センターが設立されて10周年という事で記念講演と基調講演そして討論会が開催されその時の内容が本として出版されたものである。基本的には水野正好さん中心の記録である。

 1.銅鐸の分布

 ・紀の川河口域、所謂、紀北の地域では古い時代の小さい銅鐸が多数出土する。それに対して、新しい時代の巨大な銅鐸は紀南の御坊市や日高町、南部川村では非常に大きな飾り立てられた新しい銅鐸が出土する。

 ・ヤマト王権は紀の川の河口の港津(紀伊津=徳勒津 トコロツ)が重要と考え銅鐸を配布した。ヤマト王権にとり難波津と紀の川河口津は最重要な港であった。小さな銅鐸は広島県・島根県・香川県・福井県・愛知県というヤマトを囲む地域に配布されている。

 ・時代が過ぎ、新しい大きな銅鐸が配られる頃は紀北ではなく、紀南に一斉に集中して配られこの南紀と対岸の阿南・土佐即ち紀淡海峡を背景に大きな銅鐸が配られた。又、同時にこの大きな銅鐸は愛知・静岡・長野県に配られ三河遠江という地域です。

 ・水野さんは銅鐸とは農耕儀礼で使用された祭器ではなく、水軍の軍楽器であったと考えているようです。何故なら、銅鐸が出土する地域には港湾はあるが美田は存在しないからである。水野さんの考えでは、銅鐸は軍船の船団が出撃したり帰還した時に打ち鳴らされたものではないかと推論する。

 ・関東・甲信越地方の兵隊や物資を浜名湖の港や名古屋港に迎え入れ船団を組み、ヤマト王権の指示で紀淡海峡に集結させ此処から九州や朝鮮半島や大陸に向かい出撃したのではないかと考える。又、紀淡海峡地域は船材となる「舟木」が豊富に伐採出来るところで楠が中心で沢山の軍船の建造を可能にした地域である。北部の紀の川の河口である徳勒津から南紀にかけて数多くの河口が存在し港が多数存在する事でこれらが軍港として利用された。

 ・水野さんは卑弥呼の時代から東海地方ー名古屋。浜名湖の港と、難波津と、紀の川河口の徳勒津・南紀の港を大事にしたのではないかと考えている。残りの三重県の安濃津、福井県の敦賀津の合計5港が重要な軍港であったと考えている。

 ・古来一番重要であった港は難波津と河内潟でした、この河内潟に流れ込む川が数多く存在しその河口に港が発達していた。日下江(くさかのえ)、豊浦(とようら)、若江(わかえ)、菱江(ひしえ)、蓼津(たでつ)、桑津(くわづ)、猪飼津(いかのつ)、玉造江(たまつくりのえ)などが河内潟に面して港を形成していた。満潮時には大坂湾の海水が流れ込み、干潮時には河内潟の水が難波海に流れ出て行き、それに合わせて船を操作したという。

 ・しかし、問題は大和川や淀川が多量の土砂を河内潟に運び込み、堆積し、河内潟を埋め尽くし、河内潟が港として機能が危なくなり始めたのが応神・仁徳朝の頃ではないだろうか。大陸・半島からスペシャリストを招聘し、羽曳野台地に船を管理する船氏、使節が運んで来た文書を管理する西文氏(ふみし)、津の管理をする津氏、蔵を管理する蔵氏、運搬を担当する馬氏、といった専門職の渡来人を此の地に集中的に移住させる政策がとられた。

 ・同様に、紀の川河口の徳勒津でも河内と同じように渡来系の専門職の人々を移住させ港に付帯するあらゆる仕事をさせていた。副港として紀の川河口は位置していた。しかし、河内潟は年年土砂が埋まり、深刻な問題が生まれ始めていた、そこで、副港の紀の川河口流域が注目されるようになり紀氏が注目を浴びるようになりました。大活躍の飛躍の時が来たのです。

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お陰さまで JoBlogは累計190万アクセス 

 承前 JoBlogは累計180万アクセス達成(2011年8月22日)

 メキシコ紀行中にJoBlogは累計で190万アクセスを達成しておりました。約2カ月間で10万アクセスを頂いておるようです。

 累計アクセス数: 1904733  1日当たりの平均: 695.41

 過去4カ月間のアクセス分析を見ますと、以下の通りです。

析対象期間: 2011年8月1日(月) ~ 2011年11月5日(土)

アクセス数: 133,273  
訪問者数:

92,892

 

 

   

1.JoBlog: 高句麗(コグリョ) 文明     

2.済州島 城邑民俗村: トップページ

3.尾瀬紀行 尾瀬ガ原編: 尾瀬の天気予報

4.オランジュリー美術館とコンコルド広場: ルノワール ピアノを弾く少女たち

5.JoBlog: 日本の家族制度について

6.済州島 城邑民俗村: 五味子茶(オミジャ)

7.オルセー美術館 (Musée d'Orsay): ルノワール ピアノを弾く少女たち

8.オスロ バイキング博物館: バイキング船

9.韓国 扶余 百済大典: 百済文化団地(歴史テーマパーク)

10.JoBlog: 韓国紀行(5) 丹陽八景

 こんな按配です、特に朝鮮半島系の記事が半数を占めています。

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メキシコから帰還しました(その2) オアハカ篇

 承前 メキシコから帰還しました(その1) メキシコシテイ篇

 娘が大学に通い絵(版画)の勉強ををしている、メキシコの京都と呼ばれるオアハカを4年ぶりに訪問しました、来年は娘も卒業です。

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 オアハカのパムッカレと呼んでいいですね、石灰棚のある風景です。

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 トルコのパムッカレや、中国の黄龍を思い出しました。

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 オアハカの博物館の再訪です。モンテアルバン遺跡から出土した翡翠の髑髏仮面です。

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 『死者の日』の祭壇です。松やにが焚かれています。死者を迎えているんですね、お盆の迎え火と同じような考えではないでしょうか。

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 娘も参加するオアハカのギャラリーでの彼女の版画です。今年亡くなった愛犬がお墓から起き出し、主人の家に帰り現在も生きている他の犬達とともに主人とダンスを踊り楽しむ様子を描いていると思います。

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 オアハカのサントドミンゴ教会、世界遺産です。

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 古都、オアハカのホテルの近くの風景です。落ち着いた素晴らしい街ではないでしょうか。

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 オアハカのモンテアルバン遺跡の墳墓から出土した黄金の仮面、『シペ・トテック神の黄金の面』です。

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 私の大好きなルフィーノタマヨ博物館の再訪、日本の古代と関係が考えられる翡翠の頸飾りです。

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メキシコから帰還しました(その1)

 昨夜、メキシコから無事に帰還しました。メキシコシテイ3泊、オアハカ3泊の旅となりました。丁度、メキシコでは一番のお祭で賑やかな『死者の日』でしたので、楽しい雰囲気を満喫して来ました。

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201110mekishiko_093  世界的に有名な奇跡の聖母『グアダルーペの聖母』と2万人以上が参拝出来るメキシコシテイの『グアダルーペ教会』です。

 この奇跡の話は別途、紀行記で記録したいと思いますが、カトリック教会が承認している奇跡の聖母出現潭の一つだそうです。メキシコでは聖母が受け入れられているんですね。(聖母は龍舌蘭の葉から出来た紙に描かれいる)

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 メキシコシテイ北東50㌔に位置する有名なテオティワカン遺跡の『月のピラミッド』です。紀元前2世紀から紀元後6世紀まで存在した遺跡です。

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 階段を登りました、この遺跡では一番重要なピラミッドです。

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 『月の神殿』から南の方角に一直線の朱雀大路のような道路が延び、両側に神殿が沢山立ち並んでいます。この『月の神殿』が一番大事な神殿である事が判ります。

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 左前方に一番巨大な神殿である『太陽のピラミッド』が聳えています。

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 『太陽のピラミッド』です。これも登りました。最近はパワースポットとして頂上は賑わっていました。

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