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メキシコ紀行(2011年秋)(6) メキシコシテイ篇(6) テオティワカン 死者の大通り

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(5) メキシコシテイ篇(5) テオティワカン 『月のピラミッド』

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 聖山『セロ・ゴルド』山頂と『月のピラミッド』の頂上はぴったり合います。やはり三輪山と大物主の世界を思い出す光景です。この『月のピラミッド』に関しては、前回ご紹介した杉山三郎氏の1998年6年間の発掘記録を読めば詳しく理解が出来ると思います。

Photo

 紀元後100年頃から400年頃にかけて7回、増築されたピラミッドは上空から見ると前方後方墳に見えます。これは、私だけの見方でしょうか。杉山さんはどない考えておられるんでしょうね。多分、欧米の考古学者は考えもしないでしょうね。これは明らかにユーラシアの遊牧民に共通の積石墓の系譜を引くモニュメントだと思います。

 埋葬されていた2体の王と思われる遺体には、世界では日本とメソアメリカにしか存在しない翡翠を使用した威信装飾品である耳飾り、ビーズ玉、マヤ人のみが使用するペンダントが発掘されている。

 ピラミッドは何回も増築され、その度に生贄が埋葬されたたようです。彼らはこの地方の人々ではなく他の地域の戦争で捕虜になった高貴な人々であった可能性があるようです。4世紀頃、後手の状態で首を落とされた生贄の頭蓋骨が17個も発掘されているんですね。歯には翡翠が埋め込まれていたといいますから、高貴なマヤ人の可能性が高いです。

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 『死者の大通り』で見かけたある神殿の壁画です。夜の王者であるジャガーだと思います。マヤの遺跡でも多くのジャガーの絵画や彫刻が残されています。

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 『月のピラミッド』近くの広場から『死者の大通り』を眺めました。

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 『死者の大通り』から北の聖なる山と重なる『月のピラミッド』です。紀元前後から6世紀の期間で考えると、この都市はコンスタンチノープル、長安、洛陽、ペルシャ、アレキサンドリアに次いで6番目の大きな都市だったと考えられてるという。

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