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メキシコ紀行(2011年秋)(5) メキシコシテイ篇(5) テオティワカン 『月のピラミッド』

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 壮麗な三輪山のような山の麓にあり『死者の大通り』の終着点であり始発点である重要な場所にあるピラミッドが『月のピラミッド』です。何回も増築されたように思われます。

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 『死者の大通り』から『月のピラミッド』を見上げる。

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 急な階段を登ります、これが意外に急な階段です。

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 真下を眺めると眼下に中央の祭壇の基壇のようなものが『死者の大通り』の真中に存在しています。そして、左右に幾つかのピラミッドが控えています。この眼下の広場が重要な場所ではなかったでしょうか。

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 真っ直ぐ南方向に5キロも続く『死者の大通り』です。まるで、大極殿から真南に走る朱雀大路のように思われます。事実、構造はそうなっています。左前方に巨大なピラミッドが見えますが、あれが『太陽のピラミッド』です。

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 右の方角にも幾つかの小さいピラミッドが並んで控えています。生贄の儀式はピラミッドの上で行われ、心臓を取り出された死体は階段下にけり落とされたと言います。アステカの王都のピラミッドでは毎日200人以上の生贄の心臓が神に捧げられピラミッドの階段や道路は血の匂いが充満していたそうです。

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 これだけ急な階段はアンコールワットの神殿と同じです。修理されているので、安全ではありますが高所恐怖症の人にはお勧めできません。

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 ピラミッドはエジプトの建築様式と全く異なります。大きな石を切り出し積み上げる方法では有りません。自然の石をケルンを積むように積み上げる方式です。積石墓と言えばいいのでしょうか、九寨溝・黄龍やモンゴルを歩くと大きな石積みのケルンを見かけます、そしてタルチョー(ルンタ)の旗がはためいていますが、元来、モンゴルの遊牧民は石を積む傾向があります。古代の日本でも朝鮮半島から渡来した遊牧民系の人々には積石墓が顕著です。新羅の天馬塚も確か自然石を積み上げ最後は円墳にした墳墓でした。

この写真をよくみて下さい、右側の下部に石の上からセメントか漆喰のようなもので覆われている様子が判りますね。これは、テオティワカンの人々がセメントを知っていた驚愕の事実があるんだそうです。最後の仕上げに自然石の葺き石の上からセメントで固めてピラミッドを築造していたんです。

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 写真でもお分かりのように何回も増築した痕跡が残っていますね。彼らは古いピラミッドの上に又増築して大きなピラミッドを建造して行くんですね。メソアメリカの特徴かも知れません。

 『月のピラミッド』発掘記録 杉山三郎氏

 ・『月のピラミッド』発掘記録その1

 ・『月のピラミッド』発掘記録その2

 この杉山氏の発掘記録は貴重な記録です、是非、読んで下さい。感動しました。

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