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『謎の古代豪族 紀氏』 メモ記録(2)

 承前 『謎の古代豪族 紀氏』 メモ記録(1)

 大坂湾岸には難波津、堺津、徳勒津の三カ所の港が整備され、河内潟は土砂が埋まり大坂湾に面したウオーターフロントが活気を呈する事となりました。百舌鳥の地は葛城氏の氏地だそうで、歴代の葛城系の姫が生んだ天皇の陵墓は百舌鳥に建造されている。

 3.港湾の倉庫群

 ・紀伊津(徳勒津)の北の丘陵に鳴滝遺跡があり河口を見下ろす位置にあります。この遺跡からは倉庫群が7棟、(各棟は百ヘーベ近い)発掘された。此れは港に必要な蔵であり、船団の往来に必要な物資が格納されていたと考えられる。

 鳴滝遺跡に関しては以前、同じく海外旅行中に読んだ宮崎市定さんの『古代大和朝廷』を参考にして下さい。

 難波津でも大阪城の南の地で16棟の倉庫群が発掘されている。鳴滝遺跡は仁徳天皇の跡を継いだ履中天皇前後、即ち5世紀前半、一方、難波津の倉庫群は5世紀後半の雄略天皇の頃と考えられている。

 4.大伴氏との連携

 ・紀氏は難波津、住吉津を拠点とし大陸の政策を担当していた大伴氏と強いきずなで結ばれていた。河内王権ではまさに大伴・紀(葛城)氏の時代でありました。しかし、継体・安閑・宣化時代に大伴氏は朝鮮半島政策に失敗し没落します。それと共に紀(葛城)氏も没落したと考えられます。安閑・宣化時代には欽明朝と並立したという仮説もあり、大伴・葛城に代わり蘇我氏が欽明朝の政策集団として台頭してくるのです。

 ・紀氏は紀の川河口域や南紀の地元に地盤を築いた紀直氏と都にでて王権の側近で活躍した紀臣の二つに分かれてゆくのです。我々が馴染の紀貫之は都で活躍した紀臣側の人材ですね。

5.紀の川河口の古墳群

 ・岩崎千塚古墳群は紀伊風土記の丘にありますが、密集群集墓としては日本一ではないでしょうか。本格的には5世紀末か6世紀初めに建設されるが、横穴式石室が日本に導入される時期でもあり渡来系の人々の墓であると推測されている。

 ・車駕之古址古墳(しゃがのこし)、全長110メータ墳丘の全長が86メータの前方後円墳があります。此処で出土した、「囲み型埴輪」と金製の「勾玉」が著名であり朝鮮半島製ではないかと推測されている。

 紀氏について詳しい書籍を読んだのは此れが初めてです。江戸時代の紀伊国屋文左衛門がミカンを満載して、黒潮に乗り危険を冒して江戸まで「みかん」を運んだ背景には、この古代から綿々と連続する海人の精神が存在した事を改めて知りました。

 葛城氏については、謎が多いですが、三輪王朝から河内王朝に激変した歴史では紀氏・葛城氏の大活躍が存在した可能性があるのではないでしょうか。当時のエネルギー資源として木は一番重要でした、都を建設するにも、鉄や銅を精錬するにも炭の原料である木は大事で膨大な量が必要です、そして海洋国家建設には船の建造が必要です、材料は舟木ですね。我々が今考える以上に木は大事な資源だったようです、それを確保したのが紀(木)氏だったのではないでしょうか。

 紀氏のルーツは不明ですが、明らかに渡来系のスペシャリストを多く抱え、最先端のテクノクラートを抱えた集団であった事は確かなようです。

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