« メキシコ紀行(2011年秋)(12) メキシコシテイ篇(12) 国立人類学博物館マヤ編 | Main | 同期会イン 新横浜 »

ベトナム縦断1800キロの旅(25) 中部編 ホイアン 日本人町の記憶

 承前 ベトナム縦断1800キロの旅(24) 中部編 ホイアン 日本橋夜景編

 ホイアンには日本人町の記憶が残された場所が有ります。博物館のようになっていますのでご紹介。京都の町屋と殆ど同じ作りでウナギの寝床で、坪庭も有ります。税金が間口の幅で決まっていたのでそうなったようですが、ベトナムではハノイでも今でもウナギの寝床の建物が多いです。朱印船からは多量の日本の銅貨が持ちこまれ、ベトナムの貨幣として利用された歴史が、今も残っています。ベトナム貨幣がドンと呼ばれるのは、銅貨(ドウ)という日本語がルーツだそうです。

 日本には『茶屋船交趾渡航貿易絵巻』というものが残されています、そのコピーがホイアンの現地で展示されていました。

20116vieatnum_1059

 ホイアンの港に朱印船が到着し、タグボート(当時は30名程度の水子(カコ)が漕ぐボートが三隻で湊で誘導しています)で牽いています。長い長屋のような建物は日本人の建物だそうです。

20116vieatnum_1058_2

20116vieatnum_1057

 トゥーボン川河口の上流では象が働いています、川の中の水牛の角には鳥が止まっています。のどかな田園風景です。河口の湊には日本人町があり、ヒョウタンが棚に実っている風景が描かれています。

20116vieatnum_1060

20116vieatnum_1061  茶屋新六郎が慶長17年(1612年)に交趾国の国王に貢物をしている風景が描かれています。尾張の茶屋家は家康から三代に渡り朱印状を賜りベトナムとの貿易を行った豪商です。二代目が茶屋新六郎であり彼が、ベトナム国王に貢物をしています。尾張の茶屋家の菩提寺は情妙寺でありこの絵巻は奉納されました、筒井町の近くです。

20116vieatnum_1062  茶屋新六郎の朱印船がトゥーボン川の湊に到着した図です。やはり、家康は尾張の海人である茶屋氏を撰んだのでしょうね。問題は菩提寺の近くが筒井町と呼ばれる事が気になります。ベトナムとの交易では佐賀県の有田と深い関係があり父のルーツである有明海の武雄の河口で大陸との貿易を行っていた先祖と関係が気になります。

20116vieatnum_1066

20116vieatnum_1067

20116vieatnum_1068

20116vieatnum_1069  17世紀初頭の国際貿易港としては堺でした。堺では写真左二枚が示すようにベトナムから輸入された陶磁器が出土しています。そして、日本からは佐賀県の有田焼が貿易品として多量に持ちこまれたようです。私の父の佐賀の本家では江戸時代から大陸貿易で栄えたと記録がありこの朱印船と関係が深いのかも知れません。有明湾から貿易船が裏庭まで繋留できたそうです。

20116vieatnum_1056

20116vieatnum_1063

20116vieatnum_1064

 20116vieatnum_1065 此のホイアンの資料館には当時の記憶が記録されています。

当時、東南アジアの国々では日本の陶磁器は人気があったのでしょうね。勿論、福建の中国人商人も活躍しました。

20116vieatnum_1072

 京都の町屋とホイアンの建物群との比較研究された資料もありました。どちらがルーツなんでしょうね、京都の祇園祭の鉾を観てると遥か西洋との交易品まで有りますから、実にグローバルな世界だったと思います。

20116vieatnum_1071

 坪庭もありました。

|

« メキシコ紀行(2011年秋)(12) メキシコシテイ篇(12) 国立人類学博物館マヤ編 | Main | 同期会イン 新横浜 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« メキシコ紀行(2011年秋)(12) メキシコシテイ篇(12) 国立人類学博物館マヤ編 | Main | 同期会イン 新横浜 »