古代の南武蔵(3) 多摩川・鶴見川下流域の古墳群 神庭(かにわ)邑
承前 古代の南武蔵(2) 多摩川・鶴見川下流域の古墳群 観音松古墳
白山古墳、観音松古墳から矢上川を2キロ程度遡上した場所、現在の川崎市中原区井田の場所で県立養護学校建設の話が起こり昭和46年頃から発掘が行われた。遺跡は縄文時代から奈良・平安時代まで連続する遺跡である事が昭和47年、48年の発掘で判明した。
中原区と言えば、私が長年勤務した富士通の本拠地の工場が存在する場所です。長くこの場所でも勤務した事がありました。
それはさておき、この『神庭(かにわ)遺跡』ではムラの発展と衰退が面白いほど記録していたのです。弥生時代の神庭邑は後期に始まり竪穴住居は15軒程度、そして、弥生時代最末時、古墳時代最初頭には竪穴住居址は激しく増加し50軒は越えるような繁栄状況となった。時代で言えば3世紀から5世紀前半代の様子である。
所が5世紀中葉から6世紀初頭になると突然に神庭邑はゴーストタウン化するのである。竪穴住居址も2軒となる寂れようである。邑が再び再生するのは7世紀である。この考古学的な遺跡の事実を『日本書紀』の安閑天皇の時代の記録である、武蔵国における国造の地位を巡る南武蔵の小杵(おき)と北武蔵の使主(おみ)との争いと考え、毛の国と組んだ南武蔵の小杵がヤマト王権と使主連合軍に敗れた歴史事実を裏付けているのではないかと推測されている。
『野毛大塚古墳』(多摩川下流域左岸)
多摩川下流域左岸の田園調布・荏原古墳群については既に記録をしていますので、そちらを参照して下さい。 注:古代の南武蔵(1)参照
上記古墳群の比較的上流部に野毛大塚古墳が現在、野毛公園として保存されています。
古墳概要:
・前長82メータ 高さ11メータ 帆立貝式前方後円墳。
・主体部は組合せ式石棺のほかに、割竹形木棺1基、組合せ式箱型木棺2基が新たに発見された。特に割竹形木棺は10.4メータ×3.7メータの墓穴に長さ8.2メータ×太さ直径60センチ前後の長大な割竹形木棺が納められていた。
この墓からは内行花文鏡、冑・甲・盾などの武具、勾玉・管玉・臼玉などの玉類、直刀・鉄剣などの武器、刀子・手斧などの石製模造品、竪櫛などの装身具が出土した。組合せ式箱形木棺からは多量の直刀、鉄剣と玉類出土。中央部の割竹形木棺が造墓者のものと考えられる。
・周濠が廻り、葺石が敷かれ、円筒埴輪、朝顔形埴輪のほかに家・盾・鶏などの形象埴輪が存在した。築造時期は5世紀第一四半期であると考えられている。この82メータの古墳規模からすると十分に白山・観音松古墳の被葬者と同列レベルで考える事が出来、南武蔵の王者の一人として候補であろう。
・村田文夫氏の話では、畿内の工房で作られたと考えられる三角板革綴衝角付冑(かわとじしょうかくつきかぶと)と長方板革綴短甲が出土しているので、ヤマト王権と密接な関係が存在した事を物語る。しかし、出土した石製模造品の類は群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳出土の石製模造品と類似しており毛野の巨大前方後円墳の主とも縁が深かった事も考えられる。
・野毛大塚古墳から出土した案(あん)=小机、槽(そう)=酒を作る道具、坏、盤のような厨膳具関係の石製模造品は毛野の本拠地である群馬県以外からは出土していない。墳丘外装に葺石を用いるのも北関東の特徴である。
・多摩川下流域の左岸地域に巨大な古墳を築いた豪族は毛野と手を結びヤマト王権と対峙した可能性も十分に考えられる。このような状況からヤマト王権は使主を利用し武蔵国分断の仕掛けを行ったのかも知れない。
・多摩川左岸では世田谷の砧(きぬた)中学校7号墳が5世紀初頭の前方後方墳として有名で全長65メータである。
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