お伊勢さん参拝記(4) 皇祖神2柱の謎 続編
前回は直木幸次郎さんの驚きの伊勢神宮成立の仮説についてご紹介しました。私は神道の歴史に対して専門家では有りませんが、極めて新鮮な仮説と受け止めました。
自分なりに直木幸次郎さんの仮説を考えてみたいと思います。素人なりに自分の今迄の知識と経験を踏まえて考えてみたい。私の立場は今まで『記紀』に書かれた事は何らかの過去の歴史事実を反映しているという立場です。少なくとも正史というものは虚構を書けるものでは有りません。しかし、ある面から見た事実のみを書くことはあると思います。『記紀』が天武天皇の発案で巨大な大陸の帝国である『唐帝国』に対峙する為に強力な中央集権国家の建設と国の歴史、王統の歴史が必要であると考えたと思います。そのような『記紀』創設の政治的背景も重要であろうと思います。
『雄略朝に伊勢遷祀があるとすれば』
雄略天皇は稀に見る独裁者ではなかったでしょうか、九州の熊本の江田船山古墳出土鉄剣の銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)、埼玉古墳群の稲荷山古墳出土の金錯銘大刀(きんさくめいたち)に刻まれた『ワカタケル(雄略天皇)』の考古学資料によりヤマト王権の雄略は九州から北関東まで勢力範囲を維持していた事実が判明した事実があります。
5世紀末の頃には倭の五王は中国とも交渉を行い、国内でも北関東まで進出していた事が判りました。東国経営には畿内から交通路を考えると伊勢南部から船で伊勢湾を横切り渥美(安曇)半島の伊良湖や三河に航行するルートが安全で早いルートでした。尾張には大きな川が何本も流れその後の海岸ルートでの東国への道は危険なルートでした。多分、縄文時代から安曇族の海人族は太平洋岸を航行し交易拠点を開拓していたと思います。
雄略さんは河内から奈良盆地に帰還し河内王朝を支えた屋台骨の葛城氏を滅ぼし、又、奈良盆地で最初にヤマト王権を築いた有力大豪族の吉備氏も滅ぼし跡かたも無く初期のヤマト王権の有力豪族を滅亡させた。彼が、初期のヤマト王権のような豪族連合政治体制ではなく、大王を中心とする隷属する豪族の体制を目指し実行した人物である。
従い、直木氏が語る大王中心の専制国家実現には雄略さんは高皇産霊(たかみむすび)神を皇祖神として撰び初期ヤマト王権の豪族連合体制のシンボルである天照大神を左遷した可能性を考える事は可能かも知れない。しかし、恐れ多くも皇祖神の一人であるアマテラスを適当に放逐する事は出来ない、斎宮を設定し東国経営の拠点であり、古代からアマテラス信仰が存在する南伊勢に天照大神を遷祀したと考える事も可能かも知れない。しかし、斎王に指名された女性が神宝の鏡を持ち出し五十鈴川で自殺する異常な事件が起こり、失敗した可能性もあります。(注:『紀』雄略元年3月に皇女の稚足(わかたらし)姫=栲幡姫皇女が伊勢の大神の祠に持すという記事があり、且つ、五十鈴川のほとりで自殺した奇怪な事件が存在したという。)
『継体・欽明朝に伊勢遷祀があるとすれば』
継体天皇が最終的にヤマトの磐余の玉穂に宮を構えた時に、皇祖神2柱の選択が必要だったかも知れない、恐れ多くも応神天皇5世の孫の立場であれば、高皇産霊(たかみむすび)神を選択したと考えられます。事実、継体の妃、息長真手王の娘、麻続(おみ)娘子の生んだ、荳角皇女(ささげのひめみこ)が伊勢大神の祠に侍ると記録されている。
欽明天皇の時代に伊勢遷祀が皇女磐隈が斎王として派遣されているが、実は、継体天皇没後、安閑・宣化王朝と欽明王朝が並立したと考える仮説があります。詳細は省きますが、安閑・宣化のお母さんは尾張目子媛であり尾張を基盤としている。一方、欽明はヤマトの仁賢天皇の皇女の手白香皇女(たしらかのひめみこ)を母とする。
最終的には欽明側が勝利したようですが、大事な東国経営の為に欽明側は、陸路、美濃・尾張を通過出来ない状態であり、止むなく南伊勢の湊が必須となり伊勢遷祀を大がかりに行う必要に迫られたと解釈する事も出来る。
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