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美山公園・博物館ジオサイト 糸魚川市 長者ケ原考古館(その4)

承前 美山公園・博物館ジオサイト 糸魚川市 長者ケ原考古館(その3)

 縄文時代からの日本海沿岸から北海道沿岸にかけて海のルートが活発でであり交易が行われていた事実を記録しています。その中心は出雲の海人であると考えられます。出雲の海人は早くに北九州の志賀島の安曇族と提携し朝鮮半島や大陸と交易をしていたと考えられます。新羅や百済の王が被る王冠には姫川の翡翠勾玉が飾られている事からもその事は事実であろうと考えられます。

 日本海沿岸地域の海のルートでは姫川の翡翠玉・蛇紋岩石斧を始め碧玉・管玉や漆器、昆布、金、等々の交易品を開発する拠点が営まれ、大陸を含めた大規模な交易が行われていました。

 前回は北海道沿岸地域の縄文時代時代からの海のルートで栄えた遺跡を紹介しましたが、今回は本州の縄文時代からの海のルートで栄えた遺跡を紹介します。

 (2) 本州の遺跡関連

 ① 福井県 三方五湖の『鳥浜遺跡』

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 縄文時代でも古い時代の遺物が水に守られて残っていました。ヒョウタンの器のかけらや、ヒョウタンの種も沢山出土しました。ヒョウタンが栽培されていたようです、航海民にとり、ヒョウタンは水を持ち運ぶのに最適の器でした、割れにくく、漏れず、丈夫だったからです。縄文の早期の段階から栽培していた事が判りました。ヒョウタンは又、緊急時に浮輪の役目もするそうです。

 漆を塗った器と荏胡麻(エゴマ)の実も出土した事が重大でした。荏胡麻の油は漆器を作る時に重要だそうです。明らかに、鳥浜では漆器を製造するプラント工場が存在したと考えられます。japanと言えば漆器であり世界最古の伝統を持つ国際的な貿易品であります。

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 又、航海に必須の縄が多く出土したそうです。その縄は大麻から製造され、大麻は栽培されていたと考えられます。麻縄は航海民にとり最も重要な道具であったそうです。此処では大麻の栽培もなされていた事になります。

 参考 毎日新聞 1万2千六百年前のウルシの自然木

 参考 若狭三方縄文博物館ホームページ

 ② 金沢の巨木文化 『チカモリ遺跡』

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金沢市の西南部にある縄文時代の後・晩期の集落跡が発掘され、非常に堅い木である事で有名なクリの巨木、直径80㌢を縦に半分に割り、直径7メータの円環のように建て並べた遺跡が発掘されました。所謂、ウッドサークルと呼ばれています。

 参考 チカモリ遺跡

又近くの、野々市町北西部にある縄文時代後期~晩期の大規模な集落遺跡が発掘されました。御経塚(おきょうづか)遺跡と呼ばれています。此処にも、チカモリ遺跡と同じような巨木のウッドサークル跡が発掘されました。

 参考 御経塚遺跡

 このように日本海沿岸地域では縄文時代から東大寺大仏殿に使用されるような巨木の柱を建て大形の頑強な建物を建造してしていた事が判ります。出雲大社で出土した3本の巨大な柱を束ねた柱が出土しましたが、高さ16丈とも32丈とも考えられる高層建築を建造していた事が事実であります。日本海沿岸と長野県中部高地にのみ見られる文化です。

 出雲の八千矛(大国主)神と糸魚川の姫川のヌナカワ姫との間に生まれた諏訪湖の神であるタケミナカタの地でも御柱(おんばしら)という神事が今も行われている事が有名です。神が高い柱に降臨する、依代(よりしろ)とするタカミムスビ系の信仰が存在していた事が判ります。

 豪雪地帯である日本海側では雪に耐える堅牢な建物を建てる技術が進化したと考えられます。又、海人族が潟湖の湊に夜間でも導く灯台の役目をする高い建物が必要だったと思われます。

 ③ 能登半島能登町の真脇遺跡

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 能登半島の先っぽの東海岸にある縄文遺跡です。此処の特徴はイルカの骨が多数出土するのと、縄文土器にイルカの脂のススが付着している事が判りました。彼らは、イルカ漁を行いイルカの脂を交易の商品としていた事が判明しました。

 江戸時代でも真脇の村の人々は北前船の人々にイルカの脂を販売していたそうです。ランプの油としていたんですね。その歴史は縄文時代に遡る事が判った訳です。

 参考 能登町 真脇遺跡縄文館

 ④ 鳥取県淀江町 『稲吉角田(すみた)遺跡』出土弥生土器に線刻画

 参考 稲吉角田遺跡出土土器の線刻画

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 淀江町と言えば、飛鳥・奈良時代に法隆寺の金堂壁画に匹敵する壁画を持つ『上淀廃寺(かみよどはいじ)』と四隅突出型古墳で有名な『妻木晩田(むきばんだ)遺跡』が有名ですね。

 今回は津守神社の近くの『角田遺跡』になります。此処から出土した土器に線刻画が描かれており、それを取り上げます。参考資料に故佐原氏と春成さんが模写した土器に描かれた線刻画が掲載されています。

絵では頭に羽根を付けた人間が複数船に乗り漕いでいます、そして、港に到着するのでしょうか、梯子がついた高い建物が描かれています。これは倉庫ではなさそうです、部屋が一番上にありますね、部屋の7倍程度ある高さに直接斜めに梯子が懸っています。

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 これは、まさに出雲大社と同じ構造ではないでしょうか。森浩一先生は、同じく鳥取県の代表的な古代の潟湊である東郷池の『長瀬高浜遺跡』を取り上げ、発掘時に出雲大社の建物の原型かと新聞を賑わした、4つの巨大な柱穴を持った建物跡が発掘された。柱は何と、直径80㌢であり深さ2メータもある穴が残っていました。当時の梯子は厚い板に切れ目を入れて作ったもので、歩くと揺れるそうだ、だから、斜め梯子の下には沢山の支柱が必要になります。

 この『長瀬高浜遺跡』の建物が『角田遺跡』の絵に描かれたような建物であったとすれば、側面図の線刻画と『長瀬高浜遺跡』の柱穴の深さと、柱の太さを考えると高さ20~23㍍の建物であったと想定されます。

 森浩一さんの話では、『日本書紀』に登場する場面で、応神天皇が吉備に帰国する妃を載せた船を淡路の水夫達が漕ぎ、それを『高殿』から見送ったという記述が有ります、この『高殿』とはこのような土器に線刻された、古代の出雲や日本海沿岸の潟湊に存在した建物ではないかと推測している。

 

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