お伊勢さん参拝記(3) 皇祖神二柱の謎
直木幸次郎さんのアマテラス伊勢鎮座の驚くべき仮説を御紹介します。出典は『伊勢神宮と古代の神々』(直木幸次郎古代を語る 吉川弘文館)ー伊勢神宮の成立について(天照大神の没落と復活 66頁~)
『従来の直木幸次郎さんの説』
・天照大神をヤマトから伊勢に遷祀した『日本書紀』の記録:
崇神6年に天皇の大殿の内に祭っていた天照大神を豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託けて、「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」に祭り、垂仁25年3月に天照大神を倭姫命(やまとひめのみこと)に託けた。彼女は菟田(うだ)のサキハタから近江国を廻って伊勢国に至り、天照大神の指示により祠を伊勢国に立て斎宮を五十鈴川上に興すと記録する。
『書紀』の記録に対して、『古事記』の記録は甚だ貧弱であるという。崇神段に「妹豊鉏比売命拝祭伊勢大神之宮也」とあり、垂仁段に「倭比売命者拝祭伊勢大神宮也」とある。
『記紀』の記録に対し最初に疑問を投げかけたのは津田左右吉であり、崇神・垂仁の物語は伊勢神宮の起源を説明する為に作られた話で歴史的事実ではないとした。津田の考えは戦後、丸山二郎に継承され、同じく、直木氏もこの論陣を発展させた。即ち、伊勢神宮の成立は5世紀後半の雄略、または6世紀前半ないし、中葉の継体・欽明の時代であろうとした。
「垂仁朝遷祀の疑問」
①氏(うじ)の神は氏の本拠もしくは原住地で祭るのが普通であり、天皇家と縁もゆかりもない伊勢の地で氏神を祭る理由が見当たらない。
②本拠でも原住所でもない場所でもその後天皇家にとり深い関係が出来た場所であれば、可能性があるが4、5世紀という古い時代にそんな関係が存在した可能性は存在しない。
③天武天皇に至るまで、天皇が伊勢神宮に参詣したとか幣帛(へいはく)を奉ったという記事が『記紀』には登場しない。又、舒明朝から天智朝末年に至る半世紀の期間、伊勢神宮の記事は『書紀』には登場しない。この事は、伊勢神宮が天皇家の氏の神である事を疑う根拠となる。
④壬申の乱にて伊勢神宮が天武側に立ち大活躍し、天武さんより伊勢神宮が格別の神社としてクローズアップされる。しかし、そんな状況でも持統6年5月の『日本書紀』では伊勢・大倭・住吉・紀伊大神と筆頭ではあるが地方神と同列で記録され、12月でも伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足と地方神と同列で扱われている。伊勢神宮が天皇家にとり特別な神社であるという意識がさして強くない記録である。
直木氏は垂仁朝に天照大神が伊勢に遷祀された事実は否定し、5世紀後半の雄略朝の頃か6世紀前半・中葉の継体・欽明朝の頃に南伊勢に天照大神は祭られたとした。しかし、この時期の天照大神は天皇家の守護神としての日神(太陽神)であり、天皇家の血統上の祖先である皇祖神の段階には達していなかったとする。
伊勢以外でも太陽神としての天照大神を祭る神社は多く存在した。『延喜式』によれば、大和国城上郡の「他田坐天照御魂神社(おさだにいますあまてらすみたまじんじゃ)」、大和城下、河内高安、摂津島下、山城葛野、丹波天田、播磨揖保、築紫三井、対馬下県の諸郡に存在した。
伊勢神宮が高い地位を得るのは太陽神から人格神として皇祖神への脱皮した事によるが、その理由は壬申の乱に於いて大海人皇子を支持した事による。
以上が概略の直木氏の当初の論旨でありました。しかし、依然として伊勢の斎宮制度が7世紀前半の舒明朝から天武2年まで約半世紀もの間、中絶していたのかが説明出来ない謎でありました。天皇家の氏の神として祭るからには、天皇の近親の女性を代々伊勢に送る斎宮の制度を途中で廃止するのは変である。雄略・継体朝から置かれた斎宮制度は何故、中断したのか。この謎を解く鍵は皇室には皇祖神が二人存在したという事実が原因ではないかという仮説が直木氏から打ち出された。
『高皇産霊(たかみむすび)神と天照大神』
直木氏の論を要約すると以下のようになります。『記紀』神話は高皇産霊神と天照大神という二人を皇祖神とする2種類の神話から成立しているらしい。高皇産霊神とは生産の神であり、農耕神であるらしい。天孫降臨するニニギノミコトは天照大神の男子、天忍穂耳尊と高皇産霊神の女子、タクハタ千千(チジイ)姫の間に生まれている。
天孫降臨するニニギに対して指令する神は『書紀』『古事記』で二人の神の名前が挙がっている。大国主に国譲りを迫る事を指示する神も二人である。天照大神は南方系で土着系であり早くから政治的最高神として崇められ、後から、北方系の高皇産霊神が朝鮮を経由して日本列島に入ってきたのではないかと考えられる。注:溝口睦子氏の『王権神話の二元構造』に詳しい。
直木氏は3世紀末頃に奈良盆地に誕生した第1次ヤマト王権が天照大神を最高神として祭り、4世紀末頃にそれとは別系統の王朝が大阪平野に誕生し高皇産霊神を最高神として祭り、2柱の皇祖神が生まれた。大阪平野の王朝は応神・仁徳両天皇に始まる王朝である。この河内王朝が5世紀末頃に奈良盆地の第1次王朝を圧倒し併合し宮都を河内からヤマトに遷した。それは、允恭・雄略天皇の頃であると想定される。ここに、1つの政権に2柱の最高神が誕生した。
直木氏は河内王朝を認めない学説の人でも、ヤマトから河内に進出した勢力が高皇産霊神を最高神として奉じて奈良盆地に帰還したと考えてもいいのではないかと述べている。
ここで、大胆な仮説が生まれる、第1次ヤマト王権は豪族連合の政権であり天照大神は南方的であり、土着勢力を大事するシステムであり、河内で誕生した政権は大王を中心とする垂直的なシステムであり高皇産霊神という北方遊牧民的な天の神であり、緊迫した国際情勢は強固な国家を要求していた。
古い第1次ヤマト王権は大王家が中心ではあるが、和邇、葛城、巨勢、平群という豪族連合の体制。それに対して河内王権では大王家の元に大伴・物部・中臣などの伴造系豪族が隷属する体制である。大王の専制的な性格を持つ政権である。従い、古い体制で生まれた天照大神を左遷する必要が生まれたと考える。
雄略朝の時に天照大神を伊勢に遷祀を図るが、失敗し、継体朝・欽明朝の頃に天照大神の伊勢への遷祀が成功すると考えるようです。そしてそれが、定着しやがて舒明朝の頃から天智朝の頃まで齋宮制度も忘れられる状況が生まれた。
しかし、天照大神は地方の豪族に間で根強く信仰が残っており、大海人皇子は地方の豪族と接しその天照大神信仰を無視できない事を理解し、且つ、左遷されていた伊勢神宮が大海人皇子を強力することで近江朝を倒す事が出来た。ここに、アマテラスが復活したと直木氏は考えるようです。
そして、律令体制が整い、奈良時代になり伊勢神宮は皇祖神の天皇家氏神の地位を独占する事となると論を進めた。
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