古代の南武蔵(2) 多摩川・鶴見川下流域の古墳群 観音松古墳
承前 古代の南武蔵(1) 多摩川・鶴見川下流域の古墳群 白山古墳編
前回は、多摩川右岸であり且つ鶴見川支流の矢上川流域の白山古墳について少し詳しく触れました。今回はこの古墳の矢上川対岸の日吉台地に存在する観音松古墳について触れようと思いますが、その前に武蔵国の概略について結論だけを纏めたい。
4世紀の頃にはヤマト王権の勢力範囲として現在の秩父盆地には知々夫(チチブ)国造が置かれ、それ以外は无邪志(胸刺)=ムサシ国造が置かれていました。奈良時代には武蔵と表記されるようになるが、それ以前は无邪志や胸刺と表記されていた。
化外の国(ヤマト王権の勢力範囲以外)としては一括して蝦夷(えみし)と呼ばれていたが、今の群馬県や鬼怒川流域、利根川上流の北部一帯地域には毛野国、毛国と呼ばれるケヌの国が存在した。鬼怒川の名前もここから来ています。彼らはヤマト王権と対立する勢力でした。
秩父は小さな盆地ですから、さておき、ムサシの国は4世紀の頃は多摩川・鶴見川下流域からヤマト王権の配下に入り国造はこの流域に存在したと考えられます。チチブもムサシも共に出雲系の氏族が国造に任命されたようです。ムサシの国造は前回触れた、白山古墳やこれから説明する観音松古墳、そして、多摩川左岸の田園調布古墳群・荏原台古墳群あたりにムサシの国造は拠点をもっていたと考えられます。
南武蔵地域が繁栄していたのです。最近はこれ等の古墳の幾つかは3世紀に遡る可能性があるのではないかと、仮説が登場するようにもなりました。しかし、5世紀末から6世紀に多摩川・鶴見川下流域の遺跡群は鳴りを潜める事になり、巨大な前方後円墳が埼玉古墳群として北武蔵に登場するのです。
武蔵国に政変が5世紀末から6世紀に起こったのです。ヤマト王権が大きく揺らいだ時期は2回あります、最初は4世紀の三輪王朝から河内王朝への転換、二回目は河内王朝の崩壊から継体天皇出現の時期です。6世紀頃に武蔵国で政変が存在したとすれば、日本書紀に書かれた安閑天皇の時代の武蔵国の政変が南武蔵の衰退の理由となります。
即ち、南武蔵を地盤とする国造候補の小杵(おき)が上毛野・下毛野の小熊と連携し埼玉古墳群が存在するあたりの使主(おみ)を攻め滅ぼそうと策略した事件です。使主(おみ)はヤマト王権に走り小杵(おき)を殺し、南武蔵の4カ所の屯倉をヤマト王権に献上した事件です。
橘花の屯倉とはまさに、多摩川右岸の河口流域の武蔵国造の拠点でした。
『観音松古墳』
それでは、白山古墳の矢上川対岸の日吉台地に存在した観音松古墳について触れます。
昭和13年に白山古墳と同じく慶応大学三田史学会により発掘された。全長72メータの前方後円墳であり白山古墳と同じ規模である。
内部主体は粘土槨2基であり、豪華な副葬品がある主体部ともう一つは粗末な陪葬と想定される墓だった。
・大形の内行花文鏡1、碧玉製紡錘車3、銅鏃3、直刀1、鉄斧頭1、勾玉、算盤玉、管玉、ガラス小玉等々が出土した。
・白山古墳と比較して鉄器類が少ないが、畿内の前期古墳に多い碧玉製紡錘車や銅鏃が多く出土する理由から、観音松古墳の方が白山古墳より古い古墳である事が判明した。
・何れにせよ、4世紀末から5世紀初頭にかけて矢上川を挟んだ加瀬・日吉地域では絶大な権力を手にした豪族が存在していた事を示している。これが、初期の武蔵国の国造ではないかと考えられる。
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- エゾライチョウとクマゲラを見る旅 総括編(2018.07.09)
- 2018年春の渡りの飛島 総括編(2018.07.09)
- 南ゴビ砂漠探鳥紀行(2018年6月15日~20日) 総括(2018.07.06)
- 2017年 春の渡りの飛島記録(2018.05.15)
- 豪州鳥見紀行 ケアンズ・エアーズロック・シドニー チエックリスト(2018.02.21)
Comments