お伊勢さん参拝記(2) 豊受大神宮(外宮)
お伊勢さんは先ず外宮の豊受大神宮から参拝するしきたりがあるそうです。多分、江戸時代に人々が伊勢街道を歩いて参拝した時に位置的に先ず外宮が先に出現するからではないでしょうか。
衛星写真で見ますと神域は南は勾玉池から連なる濠が廻り、北側にも濠が廻っており豊受媛神の荒御魂が鎮まる多賀神社は山の山頂にありあたかも戦闘配置についた要塞の様相を呈しています。
豊受大神宮本殿です、神域内は撮影禁止です。ガイドさんの話では鰹木は内宮に遠慮して1本少ないそうで9本、7本、5本となっています。写真の建物は5本です。これに対して内宮は10本、8本、6本と偶数だそうです。問題は、千木で外削りという垂直に切られています。確か伊勢神宮の神明造りでは水平に千木は切られている筈です。外宮は何故、出雲様式の千木なのでしょうか。これが、大きな謎です。
男神は垂直の外削り、鰹木は奇数、女神は内削りの水平の千木で鰹木は偶数という説もありますが、何れにせよ外宮が祀るのは女神ですから理屈に合わない訳です。ここに、本来この外宮には豊受媛神ではない別の男神が祀られていたのではないかと推論されます。又は、出雲系の神が祀られていたのではないかと推論出来る。
外宮の成立説話は平安初期に出来た『止由気宮儀式帳』に書かれた記録、即ち、雄略朝に丹波の国の比治(ひじ)の真奈井(まない)から御饌都神(みけつかみ=食物神)である等由気(豊受)大神を伊勢国の度会(わたらい)に移し祀ったのに始まるという説がある。しかし、古事記や日本書紀にはこの記事は存在しない。直木幸次郎さんの意見は奈良朝以降に作られた話で疑わしいと言う。
書紀では外宮について一切触れていないが、古事記ではニニギノミコトが降臨する時に従った神々の中に登由宇気(とゆうけ)神の名を掲げ、「こは、外宮(とのみや)の度相(度会)=わたらひ、にます神なり」と記録する。しかし、直木幸次郎さんは、7世紀代に外宮の由来を説明する為に作られた新しい伝えであろうと述べる。古事記に記録されたが、一般に普及せず、8世紀になり『止由気宮儀式帳』に載せられたと説明。
更に、直木氏は豊受神宮の起源が明らかでないのは、もともとこの神が大和や丹波などよその土地から遷された神ではなく、伊勢の土地の神であったからだと断定する。彼は内宮も外宮も元来は伊勢南部の地方神として一体のものであり、大和の天照大神の信仰が入り込んで来た時に、地方神の持つ性質のうち、日の神(太陽神)としての信仰が天照大神と習合合体して内宮となり、在来の地方神の祭祀が外宮として残ったと言う。地方神というのは、農業生活を守る神であり、田の神であり、政治的な性質は内宮に奪われ、外宮は食物の神として祀られるようになった。
外宮の禰宜は度会氏であり、度会という地名(郡の名前)を名乗り南伊勢の土着の名門の豪族ではないかと考えられる。
更に、豊受媛神について触れてみたいが、興味の無い人はマイフォトで外宮の写真を参照して下さい。
マイフォト 豊受大神宮(外宮) 写真集
直木氏の考えでは、天照大神を奉ずる天皇家が進出する以前の伊勢では、おそらく度会氏が伊勢大神を祭っていた。天照大神の進出により、伊勢大神の祭祀が内・外宮に分かれ、地方神の伝統を引き継いだのが外宮であり度会氏が引き続き祭祀を担当したと考える。
内宮は在来の太陽信仰を基盤とした伊勢大神を前提とし、天照大神の信仰が大きく影響し形成されたので新しい神社と言える。従い、比較的新興の氏族である荒木田(墾田=あらきだ)氏が祭祀を担当した。
以上のようにして、天照大神を祭る伊勢神宮は6世紀前半を中心とする時期に成立したと考える。しかし、伊勢神宮が天皇家の氏神の社の地位を独占し、国家最高の神社となるのは、律令体制が進み、古代国家が完成する7世紀以降であると直木氏は述べています。
直木幸次郎はその後、更に、驚天動地な伊勢神宮成立に関わる仮説を発表する事になります。その話は次回に譲り、豊受媛神についての追跡も次回とします。
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