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美山公園・博物館ジオサイト 糸魚川市 長者ケ原考古館(その2)

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 『長者ヶ原遺跡発掘』

 長者ヶ原遺跡について、『日本の翡翠 その謎を探る』寺村光晴(吉川弘文館)を参考に御紹介します。

 遺跡は明治30年頃には発見されていたが、大正12年に八幡一郎教授が斑点のある礫を採集され翡翠ではないかと疑問に持たれたが、世には認められなかったそうだ。所で玉を制作する場所の事を縄文時代では攻玉遺跡と呼ぶそうです。

 昭和29年、31年、33年と藤田亮策教授により発掘された。しかし、昭和35年に亡くなられ、後を継いだ清水潤三教授により昭和39年に『長者ヶ原』糸魚川市教育委員会として刊行された。

 長者ヶ原遺跡は北向きの細長い丘陵地であり、元来が杉林だった所が開墾されて出来た。発掘により6個の炉が発掘され竪穴住居跡であると想定。直径6メータに及ぶ竪穴住居と大きな炉が特徴でありました。中でもB4号炉は直径が1.5メータ、南北の最大幅95センチ、側石には長さ40センチ内外の細長い川原石を使用し、炉の内部には灰・焼土が充満し厚さ10㌢も堆積していた。そして、中心部には土器が埋められていた。(縄文時代に炉の中心部に土器を埋める信仰が存在したが理由は不明)

  このような巨大炉が注目されたのは、昭和30年の新潟県栃尾市栃倉遺跡の発掘調査からだそうです。直径2.1メータ幅40センチの炉が発掘されている。これらは全て縄文中期のものだそうだ。巨大炉の存在の理由は今だ解明されていないが、サケ・マスなどの魚類が遡上する河川と関係が深いのではないかと推論する説があります。(山内清男)多量の魚類を鮮度の落ちないうちに、修理し、加工し、保存する為に広い炉中の熱灰、熱反射を利用したのではないかと推論している。

 しかし、長者ヶ原遺跡では焼けた翡翠礫が出土し、蛇紋岩・翡翠を加工するプロセスで熱処理をしたのではないかと推論されている。熱を加えると割れやすいそうです。

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 (出土遺物)

 土器・土偶・人面把手(とって)・獣面把手・土製円板・石鏃・磨製石斧(せきふ)・打製石斧・石匙・石錘(せきすい)・石皿・石冠・砥石・玉類・翡翠原石 等々が出土した。

 マイフォト 長者ヶ原考古館 写真集を参照して下さい。

翡翠は130個が出土し、加工痕があるのが35個でそのうち10個は既に研磨されていた。他の25個は敲いて打痕を残している。残りの95個は礫のままが23個、他は全て打ち割りの面を持っていたそうだ。

 砥石では扁平な砥石、石を擦りきる為の包丁のような擦切砥石(すりきりといし)や玉砥石が出土している。玉砥石とは浅いU字形の溝がついている砥石で、玉を磨く時に同一線上を何回も往復するので自然とU字形の溝が出来た砥石。従い、溝砥石とも外磨筋砥石(そとみがきすじといし)とも呼ばれる。石質は砂岩もしくは蛇紋岩が多いという。

報告書では茅原一也氏が石の鑑定をしており、長者ヶ原遺跡から出土する翡翠の原石(礫)は姫川の転石や海岸漂石を採拾してきたものであると断定した。

 (長者ヶ原文化)

 出土土器を見ると、この地方を代表する長者ヶ原土器だけでなく、北陸系土器、信濃川流域の火焔土器、東北方面の大木式土器、中部地方の曾利式土器、関東地方の加曾利E式土器などもみられるという。特に木島勉氏は長者ヶ原式土器のなかの、「台付土器」に注目しこの土器の分布は翡翠の攻玉遺跡の分布と重なるという研究成果を出している。

長者ヶ原文化は地方の文化ではなく、多くの地方と交流を持った文化であったと考えられる。しかし、この遺跡も縄文中期に最も栄え後期以降は廃絶してしまう運命にありました。後期の中頃には廃絶してしまった。

 (寺地遺跡)

長者ヶ原遺跡の西方6キロの親不知子不知の険で知られる青海町に攻玉遺跡である「寺地遺跡」が存在する。昭和43年から48年まで4回に渡り発掘が行われた。遺跡は田海川(たうみかわ)の西岸に接し、海岸から400メータの地にあります。遺跡は西半分が縄文時代中期~晩期後葉の遺跡であり、東半分は晩期に属する遺跡と判断された。

 発掘成果の最大は完全な形の翡翠の攻玉遺跡(工房跡)が発掘された事で縄文時代中期にはどのように翡翠が加工されていたかが判明した。第1号址の概要は以下の通り

 長径5.22㍍、短径4.9㍍のほぼ円形の竪穴で地山面を約27㌢ほど掘りこんで床が設けられている。壁に沿い内側に幅50~70㌢のテラスが、各主柱穴を頂点として六角形を呈して巡っていた。床面は硬く踏み固められ、円形の壁及び六角形のテラス壁内側に沿い、径約3㌢、深さ3~4㌢の小さな穴が20㌢の間隔で連続して巡っている。

 柱穴は25個あり、うち主柱穴は6個である。建て替えられた疑いがある。どれも径50㌢深さ40㌢前後で、土器片、翡翠礫、蛇紋岩片などが柱の根固として入っていた。炉は石囲炉で中央よりやや南西に位置し、西に接した床面に厚さ11㌢の焼土が堆積していた。

 

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