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古代の南武蔵(1) 多摩川・鶴見川下流域の古墳群 白山古墳編

 以前に、多摩川下流域左岸の荏原台古墳群について現地を歩いてメモを残しました。今度は多摩川下流域右岸であり鶴見川支流の矢上川流域に存在した古墳群についてメモを残します。

 参考 3世紀関東にも前方後円墳は存在したのか その1 宝莱山古墳

 参考 3世紀関東にも前方後円墳は存在したのか その2 亀甲山古墳

 参考 3世紀関東にも前方後円墳は存在したのか その3 田園調布古墳群

 参考 3世紀関東にも前方後円墳は存在したのか その4 浅間神社古墳

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 『白山古墳』

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 昭和12年に慶応大学により発掘された全長87メータ、後円部径42メータ、高さ10メータ、前方部幅37メータ、高さ5メータの前方後円墳である。川崎市幸区北加瀬に所在します。

前方部に粘土槨1基、後円部に粘土槨2基そしてその中間の深部に木炭槨1基(これが主体と考える)が発掘され、木炭槨からは多くの重要な遺物が発掘された。

 「出土遺物」

 ・後円部北粘土槨→珠文鏡1、乳文鏡1、勾玉1、管玉6、丸玉・小玉67

 ・後円部南粘土槨→管玉2、丸玉1、小玉10

 ・後円部中央木炭槨→三角縁神獣鏡1、内行花文鏡1、直刀身3、剣身6、刀子身1、鉄鏃28、鉄斧頭4、鎌身1、錐1、楔形鉄器1、小玉一括

 ・前方部粘土槨→櫛歯文鏡1、管玉1、小玉4

 以上から古墳の主は後円部中央深部に設置された木炭槨に埋葬された人物と考えられ、それ以外は身内の人、例えば奥さんのような人と考えられる。

 ・木炭槨から出土した三角縁神獣鏡は何と、椿井大塚山古墳から出土した背面に四神四獣を鋳出し、その外側に天王日月の銘文を規格的に浮き彫りし、それらを結ぶ帯部には走る獣が描かれた3枚の同笵鏡と同じだったのです。それだけでなく、同じ同笵鏡は山口県の小島、竹島の最高所に築かれた竹島御家老屋敷古墳出土の鏡とも同笵であり、且つ、福岡県神蔵(かんのくら)古墳出土の鏡とも同笵でありました。

 九州・西国・畿内・東国と同じ鋳型から作られた三角縁神獣鏡が存在したのです。やはりこの鏡の盟主は南山背の椿井大塚山古墳の主が全国に配布したと考えるのが適当ではないだろうか。私は椿井大塚山古墳の主は崇神天皇と戦った、古代最大の内戦と呼ばれた戦いをした武埴安ではないかと推測しています。

本件は、崇神天皇の王朝と近江にも王朝が並立していたという仮説に繋がる重要な事です。

 ・国宝『秋草文壺』

 後円部の底からは壺が出土しました、平安時代のものと想定されるが、これは国宝として慶応大学が管理しています。

 参考 国宝『秋草文壺』

 白山古墳の墳形をコンピュータで分析すると、箸墓古墳やメスリ山古墳に近い事が判ったそうです。大阪電気大学の小沢一雅教授の研究成果だそうです。

 古墳の築造時期は4世紀末頃だと現在は考えられています。実は矢上川を挟んだ対岸に観音松古墳が存在しています。慶応大学は同じく昭和13年にこの古墳も発掘しました。次回にメモは譲ります。

 参考文献 古代の南武蔵ー多摩川流域の考古学(村田文夫) 有隣堂

 参考文献 古代の武蔵ー稲荷山古墳の時代とその後(森田悌) 吉川弘文館

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