弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(その1)
最近、以下二冊の本を読みました。
『弥生時代の始まり』(春成秀爾 東京大学出版会 1990年3月初版)
『弥生人の鳥獣戯画』 (香芝市二上山博物館編 雄山閣出版 1996年3月初版)
春成さんはこの数年、歴博で放射性炭素14法で弥生時代の始まりの時期を500年早めたり、箸墓古墳が240年~260年建造とセンセーショナルな仮説を提案され、考古学会に波紋を投げかけておられます。彼の弥生時代に関する考え方が素人にも判り易く解説された本が上記の本です。又、弥生土器に線刻された鳥獣や人物、建物に関しても博学である。
二冊目の本は考古学者の石野博信さんが中心になり、橋本裕行、辰巳和弘、野本寛一、そして童話作家、切り絵作家の方々が集まり『創作 弥生版 鳥獣戯画』を創作された内容を納められています。非常に貴重な本だと思いました。是非、古代史ファンの人であれば一度は読まれる事をお勧めします。
私の読後感や疑問やメモを残します。
1.壺は弥生時代から本格的に製造される
縄文時代の土器は煮炊用の土器、即ち甕が使用されていた。しかし、弥生時代から貯蔵用の壺が出現し甕と壺が弥生遺跡からは同じくらい出土する。あと食料を盛る鉢や供献用として高坏(たかつき)が存在する。水田稲作が始まり、画期的に社会生活環境が激変した事により、種籾貯蔵用としての壺や酒を始め水溶性の食料を貯蔵する壺が必要になった。
古墳時代を代表する前方後円墳の形状は纏向型前方後円墳から箸墓の形状に進行したと考えられるが、『壺形 宇宙観』がその背景にあるという考えが最近の考古学では有力ではないでしょうか。
2.弥生時代から鹿は神聖な生き物となる
縄文時代は遺跡からイノシシと鹿の骨は同じ程度出土するそうですが、弥生時代から突然に食糧対象(狩りの対象)としては鹿が存在しなくなるという。むしろ、鹿の肩甲骨を使い卜占の材料として使用された焼けた骨が出土する。どうやら、水田稲作の開始と関係があるようだ。
鹿は10月頃、丁度、稲に実が結実する頃に発情するという。ススキに穂が出る頃と同じだという。そして、5月頃に子供を産む、丁度、水田稲作では苗代で稲の芽がでる頃だと言う。鹿の生命のサイクルと稲の生命サイクルが同じなのだ。そして、5月に牡鹿の角は生え換わるという。稲の生命と鹿の生命を同じように考えた可能性が高いと言う。
弥生土器や銅鐸には沢山の鹿が描かれるようになり、それは祭祀に関わる絵であると考えられるそうだ。そういえば、春日大社は神祇に関わる中臣氏(藤原)の神社であり鹿が神の使いであると考えている。藤原氏の出身元である鹿島神社もそういえば鹿の漢字が使用されている。
そして、神話として鹿の血だらけのハラワタに稲の籾を撒くと、一晩で稲が成長したという話も鹿の生命が稲の生育を助けると信じていたようだ。今でも、東北地方で鹿の格好をして踊るお祭があるが、その背景には弥生時代からの鹿に関する神聖と関わりが深いという事らしい。
3.卑弥呼は鳥の格好をして高殿で祭祀をした
鳥は嘴で稲の穂を持って来るという伝説が東アジア、特に大陸では常識だそうだ。
唐子・鍵遺跡の少し北にある清水風遺跡から出土した土器には鳥装の巫女が袖振りをしている絵が描かれている。頭には鳥の羽根を載せ、胴の部分に鹿の絵が描かれ、両そでは大きく膨らみ左右模様が異なる、そして手の先は鳥と同じ三本の指であり大きく両手を掲げ、袖振りをしている姿である。
辰巳さんの解釈では同じような姿の線刻画が唐子・鍵遺跡の壺形土器に描かれており、下半身に女性器が描かれており巫女であると判断されたようだ。彼は、箸墓に眠るヤマトトトヒモモソヒメは大物主を祀る巫女であり、トトヒとは『鳥飛び』のことで、その名から鳥装の司祭者として唐子・鍵や清水風の絵のシャーマンの姿が連想される。
参考 女性シャーマンを描いた大壺 『唐子・鍵考古学ミュージアム』
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