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古代の南武蔵(1) 多摩川・鶴見川下流域の古墳群 白山古墳編

 以前に、多摩川下流域左岸の荏原台古墳群について現地を歩いてメモを残しました。今度は多摩川下流域右岸であり鶴見川支流の矢上川流域に存在した古墳群についてメモを残します。

 参考 3世紀関東にも前方後円墳は存在したのか その1 宝莱山古墳

 参考 3世紀関東にも前方後円墳は存在したのか その2 亀甲山古墳

 参考 3世紀関東にも前方後円墳は存在したのか その3 田園調布古墳群

 参考 3世紀関東にも前方後円墳は存在したのか その4 浅間神社古墳

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 『白山古墳』

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 昭和12年に慶応大学により発掘された全長87メータ、後円部径42メータ、高さ10メータ、前方部幅37メータ、高さ5メータの前方後円墳である。川崎市幸区北加瀬に所在します。

前方部に粘土槨1基、後円部に粘土槨2基そしてその中間の深部に木炭槨1基(これが主体と考える)が発掘され、木炭槨からは多くの重要な遺物が発掘された。

 「出土遺物」

 ・後円部北粘土槨→珠文鏡1、乳文鏡1、勾玉1、管玉6、丸玉・小玉67

 ・後円部南粘土槨→管玉2、丸玉1、小玉10

 ・後円部中央木炭槨→三角縁神獣鏡1、内行花文鏡1、直刀身3、剣身6、刀子身1、鉄鏃28、鉄斧頭4、鎌身1、錐1、楔形鉄器1、小玉一括

 ・前方部粘土槨→櫛歯文鏡1、管玉1、小玉4

 以上から古墳の主は後円部中央深部に設置された木炭槨に埋葬された人物と考えられ、それ以外は身内の人、例えば奥さんのような人と考えられる。

 ・木炭槨から出土した三角縁神獣鏡は何と、椿井大塚山古墳から出土した背面に四神四獣を鋳出し、その外側に天王日月の銘文を規格的に浮き彫りし、それらを結ぶ帯部には走る獣が描かれた3枚の同笵鏡と同じだったのです。それだけでなく、同じ同笵鏡は山口県の小島、竹島の最高所に築かれた竹島御家老屋敷古墳出土の鏡とも同笵であり、且つ、福岡県神蔵(かんのくら)古墳出土の鏡とも同笵でありました。

 九州・西国・畿内・東国と同じ鋳型から作られた三角縁神獣鏡が存在したのです。やはりこの鏡の盟主は南山背の椿井大塚山古墳の主が全国に配布したと考えるのが適当ではないだろうか。私は椿井大塚山古墳の主は崇神天皇と戦った、古代最大の内戦と呼ばれた戦いをした武埴安ではないかと推測しています。

本件は、崇神天皇の王朝と近江にも王朝が並立していたという仮説に繋がる重要な事です。

 ・国宝『秋草文壺』

 後円部の底からは壺が出土しました、平安時代のものと想定されるが、これは国宝として慶応大学が管理しています。

 参考 国宝『秋草文壺』

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築紫紀行(18) 旅を終えて

 承前 築紫紀行(17) 佐賀城・佐賀県立図書館

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 儺の津(奴の津、奴國)の夜の那珂川の風景です。京都のMuBlogの旦那からの誘いで今回の築紫紀行は実現しました。悠か彼方の歴史に思いを馳せ、時空を超えた楽しい旅でした。

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 志賀島の『金印』、太宰府八幡宮、九州国立博物館、吉野ヶ里、佐賀、武雄と旅は続きました。私の父の故郷は武雄の橘村、江戸時代の杵島郡蘆原村になります。明治の時代まで有明海航路で大陸との交易湊として栄えたそうです。父のお母さんは高貴なお家から来られ、お姫様とよばれていたという。蘆原村は明治の世になり橘村となり、父の実家は庄屋さんから村長さんとして地元では名士だったそうだ。

 地元の食料品製造会社の社長さんの話では、400町歩を超える田圃を抱える大地主だった語られていました。明治も終わりになり、海運から陸運に日本経済は転換し、佐賀を捨て大阪に転出したという歴史だったようです。

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 佐賀の居酒屋の看板です、港で魚を入れる木箱ではないでしょうか。呼子とは魏志倭人伝に登場する末盧国の湊ですね。戸ヶ里とは吉野ヶ里と同じ肥前独特の方言で戸の里と呼ぶ訳です、昔の条里制の無残りですね。戸とは水戸とか瀬戸、鳴門、ヤマト、同じで川や海の出入り口の事を指します。

 唐房、多良漁港とは大陸・朝鮮半島との関係が深そうな名前ではないですか。まさに、佐賀は大陸・半島との一衣帯水の距離にある場所である事を感じさせます。

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築紫紀行(17) 佐賀城・佐賀県立図書館

 承前 築紫紀行(16) 吉野ヶ里遺跡その5 展示室

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 佐賀城です。初めて訪問しました。

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 樹齢300年をこえる楠の巨木が120株ちかく佐賀城址の濠には存在します。県の指定天然記念物だそうです。

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 濠の内部を覆い隠すように繁茂している姿から『葉隠城』と呼ばれたそうです。

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 圧倒される巨木の楠ですね。

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鹿島槍ヶ岳山麓 『翔羊(しょうよう)山荘』ワーク記録(2011年9月)

 承前 鹿島槍ヶ岳山麓 『翔羊山荘』から帰還

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 (以下、写真は18回生、元主将の宮崎さん撮影)

 2011年9月23日~25日の期間、神戸大学ワンダーフォーゲル部のOB12名は鹿島槍ヶ岳山麓の『翔羊(しょうよう)山荘』に集結し小屋の修理作業を行った。

 メンバーは12回生・鷹取、15回生・阪本、16回生・中川、田中、岡本、17回生・山本、筒井、18回生・宮崎、21回生・森田、24回生・眞野、27回生・鈴木、28回生・吉村 以上の12名です。

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 参考 46年前のワンゲルの思い出(2010年9月記録)

 私は東京の東横線の多摩川駅から私の次の代の主将をした宮崎さんの車に乗せて貰い、同乗者は5年先輩の12回生の鷹取さんと中央高速で鹿島槍山麓の山小屋を目指した。17回生の代で山小屋建設を部員総会で議決し建設の準備に取り掛かり、大学やOBや地元の地権者や建設会社、資金調達の事業計画、等々とめまぐるしい多忙さだった。

 当時は日露戦争当時の日本と同じでワンゲルの財政は山小屋を建設は出来ても維持できる資金余裕は無かったので、大学に寄付し維持費は大学にお願いする事にした。実際に山小屋建設の苦労は18回生の宮崎主将の代だったと思います。設計は16回生の中川さんが担当し現在でも山小屋修理のリーダーは中川さんである。

 2011年9月『翔羊山荘』ワーク記録 写真集

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築紫紀行(16) 吉野ヶ里遺跡その5 展示室

 承前 築紫紀行(15) 吉野ヶ里遺跡その4 北内郭

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 V字形に掘られた外濠の深さは3メータ以上に達し、本来は更に深かったと考えられています。しかも、濠の外には土塁を築き柵を設けていた強固な要塞であった。

倭国大乱を証明するような遺構である。激しい戦争が行われていた事を伝えている。

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20119tsukushi_313  上の写真は右から弥生前期の土器、中は弥生中期の土器、左は弥生後期の土器群です。この遺跡は弥生時代全般に存在した事が判ります。

下の写真は近畿圏の土器や、瀬戸内海、山陰系の土器が発掘されており、交易が存在した事を証明している。

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20119tsukushi_315  上の写真は有名です、墳丘墓の甕棺から出土した把頭飾(はとうしょく)付き有柄(ゆうへい)銅剣、細形銅剣、管玉です。把頭飾銅剣は珍しく、全体を同時に鋳造した一鋳式で向津具遺跡そして倭人伝にある伊都国王墓と考えられる三雲遺跡出土に次いで三例目でした。

 参考 向津具遺跡出土銅剣

 ガラス製管玉は七十数個見つかりました。透明感あるライトブルーは甕棺に付着した朱と鮮やかな対比を見せていた。下の写真は、甕棺で二つを粘土で繋いで埋葬します。甕棺葬送の風習は私が知る限り、南方系の葬送でありベトナム中部のサーイン文化、インドネシア、フィリピン、東シナ海、朝鮮半島南部(馬韓・弁韓・辰韓)に見られる葬送風俗です。

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 謎の頭の無い人骨です。松下孝幸さんの話では死後に首を切断されたと鑑定した。何かへの犠牲だったのかもしれない。

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築紫紀行(15) 吉野ヶ里遺跡その4 北内郭

 承前 築紫紀行(14) 吉野ヶ里遺跡その3

吉野ヶ里遺跡で一番重要な北内郭に行きましょう。二重の柵で囲まれた空間であり、発掘状況から主祭殿を中心とする祭祀場であったと考えられています。

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 主祭殿で三階建てであり、二階は政治を議論し議決する場であり、三階は巫女が神のお告げを聴く神聖な場所として復元されています。明らかに魏志倭人伝の邪馬台国をイメージした復元です。

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 二重の環濠に囲まれています。

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20119tsukushi_301  発掘時の様子ですが、主祭殿と思われる柱跡、その前にベランダ付きの正方形に近い特殊な形をした高床の建て物(最高の司祭者の住む場所と想定)、東祭殿と呼ばれる夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にある高床の建て物の柱穴、そして物見櫓と思われる柱穴跡が発掘された。

 私はボランテイアの人と話しこんでしまい、主祭殿には登る時間と体力が有りませんでした。同行のMuBlogの旦那がカバーされていますのでそちらを参照して下さい。

 参考 MuBlog吉野ヶ里紀行 北内郭祭祀場

 

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築紫紀行(14) 吉野ヶ里遺跡その3

 承前 築紫紀行(13) 吉野ヶ里遺跡その2

 南内郭の続きです。

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 南内郭の北側と北の背振山を望む。

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 北の内郭(祭祀建物)を見る。

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 南内郭の大人の竪穴住居群。

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 高床倉庫群と市が存在した考える広場。南内郭の西方向に存在する。

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信濃大町 上原(わっぱら)遺跡 環状石籬・竪穴住居

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Photo  信濃大町の『わっぱらの湯』の傍に縄文時代前期の集石・立石群(ストーンサークル)と竪穴住居跡の県史跡がありました。

縄文時代前期、5~6千年前の遺跡だそうです。1942年に地元の人が発見し1951,52年に国学院大学の大場磐雄先生が発掘されたそうです。

今は大町ダムがありますが、高瀬川と鹿島川に囲まれた中洲のような高台の位置にあります。

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 どうやら2基の環状石籬として復元されたのではないでしょうか。1942年に発見された時の写真があれば面白いのですが、これは大場先生が考えられた配石ではないでしょうか。

 大町温泉郷の源泉の傍ですから縄文人も温泉を楽しんでいたのでしょうか。ストーンサークルとして考えればいいのだろうか。やはり、先祖のお墓なのでしょうか。太陽の祭祀だったのか、それともここから眺望できる後立山連峰の蓮華岳を遥拝する宗教的な石組だったのか、今となっては判らない。

 参考 英国紀行(ストーンヘンジ関連記事)

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鹿島槍ヶ岳山麓 『翔羊山荘』から帰還

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 鹿島槍ヶ岳山麓にある『翔羊山荘』近くの鹿島川河原から眺める後立山連峰の盟主、鹿島槍ヶ岳です。

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鹿島槍南に聳える爺ヶ岳の峰です。

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 五龍・唐松岳へと北に延びて行きます。後立山連峰の威容が続きます。

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 大学時代にワンダーフォーゲル部として建設した『翔羊山荘』に久しぶりに集まりました。43年前に大学に寄贈していますが、ワンゲル部が今でも維持管理のお手伝いをしています。山小屋を設計した中川さん(1年先輩)を中心に昨年から開始した山小屋修理の為にOBが集結した。写真のメッチェンはたまたまワンゲル仲間の友人で明日4時から鹿島槍を登山する人々だそうで、大阪から来られました。

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築紫紀行(13) 吉野ヶ里遺跡その2

 承前 築紫紀行(12) 吉野ヶ里遺跡その1 南内郭へ

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 吉野ヶ里遺跡の全貌です、未だに北部は発掘中です。全体の環濠集落50ヘクタールは日本最大の弥生遺跡であり、奈良の唐子・鍵遺跡の環濠集落25ヘクタールと比較されます。

 参考 奈良 三輪山周辺を歩く(唐子・鍵遺跡含む)

 吉野ヶ里という聞き慣れない名前の由来は、律令時代の条里制の里に由来しています。7世紀終わりから8,9世紀の頃は条理制があり、口分田がありました。戸籍を作り田圃の地割をしないと管理出来ない、その座標が水田の面積を1里、2里、と単位を設けた。1里は36坪に区分され50戸の人々が収容された。これが、里である。

 だから、吉野の里と呼ばれていたが、肥前の国独特の方言で吉野の里=吉野ヶ里と呼んでいたそうです。私の父の故郷である杵島郡には六ヶ里、戸ヶ里などがありました。

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 南内郭には4基の物見櫓が建っています。柱穴から類推して復元されたものです。本当にあんな格好をしていたか判りませんが、環濠集落が形成された時代の弥生土器に残された線刻画を参考に復元されたものと思います。

多くの環濠集落時代の土器の線刻画は近畿地方の唐子・鍵遺跡や大阪の池上・曽根遺跡が有名です。

 参考 弥生土器の線刻画その1

 参考 弥生土器の線刻画その2

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 南の守り、『櫓門(やぐらもん)』の復元です。中世の戦国時代でも登場しそうな櫓門ですね、本当にこんな櫓があったんでしょうか。楯を並べて弓で侵入者を攻撃したんでしょうね。江戸時代に武士しか門を構えるのを許さなかった背景には、弥生時代からの『櫓門』の意味が綿々と続いていたのかも知れない。

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築紫紀行(12) 吉野ヶ里遺跡その1 南内郭へ

 承前 築紫紀行(11) 鳥栖駅 十字路

 鳥栖から長崎本線に乗り『吉野ヶ里公園』で下車し、駅の案内所に立ち寄り荷物を預け、歩いて吉野ヶ里遺跡に向かう事にした。

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 田圃の中を歩いて向かうが、北に見えるのは背振山です。吉野ヶ里は風水に適した場所であり、北に背振山の玄武を抱き、東に遺跡に沿って南北に流れる田手川が青龍である。そして、佐賀から長崎に延びる道が西に広がり白虎となる。まさに、都城に相応しい地形である。遺跡は南北に連なる5メータ程度の高さの高台の上に南北に50ヘクタールに渡り展開する弥生時代の高地性大環濠集落である。

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 此れが遺跡の東端を南北に流れる田手川であり、筑後川の支流であり有明海に繋がっています。弥生時代は海岸線は随分と近くであったと推測出来ます。有明海から大陸と交易を行い且つ、陸路では五島列島に連なる長崎や、北上すれば博多湾であり伊都国や奴國という玄界灘に面する国々と交流があったと推測出来る。

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 今回は時間の関係で南の内郭と北の内郭を訪問するが、全ての遺跡を歩くとなると一日は最低かかりそうだ。

 この遺跡は忘れてはならないのは高島忠平さんがおられたから工業団地開発から守る事が出来ました。親子二代に渡る吉野ヶ里遺跡への愛着が産んだ歴史のドラマでしたね。彼が佐賀県教育委員会に居られなければ、この遺跡はとっくにブルトーザでひっくり返され、跡かたも残らなかったと思います。1989年からの発掘の興奮は今も私は忘れる事が出来ません。日本中がロマンに酔った記憶が甦ります。

 参考 マイフォト 『吉野ヶ里遺跡』 写真集

 写真集は徐々に追加して行きます。記事の進行に合わせて追加します。

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葛城の蘇我氏発祥の地(メモ)

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 葛城氏は4世紀の頃から5世紀、所謂、河内王朝とも呼ばれる時代には最大の勢力を持つ氏族でした。雄略天皇に滅ぼされ、葛城氏を構成する蘇我氏・忌部氏・秦氏・加茂氏等々は葛城から四散した。蘇我氏は河内の石川に、秦氏・加茂氏は山背の鴨川・桂川流域に拠点を移動させた。

 そこで、葛城に蘇我氏・忌部氏のゆかりのルーツの地を辿りたいと思います。掲載しました地図は、グーグルアースでゆかりの地を私がプロットしました。

橿原市曽我町と橿原市忌部町のほぼ中間、天高市神社の北側に曽我玉作遺跡があります。この遺跡の発掘により蘇我氏と祭祀氏族の忌部氏、及びヤマト王権の神祇政策との関係を考察する上で重要な遺物が多く出土した。

 場所は畝傍山の北にあり、傍を曽我川が北上し南には古代の官道、横大路が東西に走る。北には弥生時代の中曽司遺跡・土橋遺跡、南西には古墳時代の曲川(まがりかわ)遺跡が分布する。忌部氏が祖神とした延喜式内名神大社の太玉命神社がある。又、蘇我氏が祖神を祭る宗我坐宗我都比古神社(そがにいます そがつひこじんじゃ)、さらに式内大社の天高市(あめのたけち)神社が近接して鎮座する。

 安閑天皇の勾金橋(まがりかなはし)宮の伝承地も近くにあります。

 遺跡は5世紀後半に突然、大々的な玉の一貫生産が始められ6世紀前半まで続いた玉作遺跡です。出土遺物は碧玉・琥珀・緑色凝灰岩・水晶・翡翠・埋木・ガラスなどを原料とする玉類(勾玉・管玉・丸玉・棗玉・小玉・切り子玉・子持ち勾玉)等々と、滑石製模造品、砥石、舞錐、銅製儀鏡、鉱さい、韓式系土器、製塩土器、土師器、須惠器、等々が出土したという。

 遺物の中心をなす玉類の出土は数十万点に及ぶという。遺跡全体ではこの10倍規模が埋まっていると考えられるそうだ。材質が豊富であり、生産量が群を抜いている。滑石は和歌山県、碧玉は山陰地方、緑色凝灰岩は北陸地方、ヒスイは新潟県、琥珀は岩手喧嘩千葉県だと推測されているそうだ。

 以上は、平林章仁氏の「蘇我氏の実像と葛城氏」(白水社)第1章を典拠としております。

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築紫紀行(11) 鳥栖駅 十字路

 承前 築紫紀行(10) 九州国立博物館

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 鳥栖駅です、九州を縦断する鹿児島本線と長崎本線・佐世保線と交わる交通の要衡です。古代から有明海の交易路と長崎・五島列島の交易路と博多湾の玄界灘の交易路が交わる商業上重要な場所だったと考えます。

 此処から佐世保線で西に向かうと吉野ヶ里遺跡に到着します。

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 面白い吊り輪ですね、円形です。関西や関東、否、私は始めてこんな吊り輪を見ました。世界初ではないだろうか。(笑)皆で仲良く輪になり、ぶら下がって話をして欲しいという期待があるんだろうか。

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 長崎本線のハウステンボス号が停車しています。

 参考 MuBlog  九州番外編「2011年夏」

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築紫紀行(10) 九州国立博物館

 承前 築紫紀行(9) 太宰府天満宮

 太宰府天満宮のすぐ近くに九州国立博物館があります。

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 山の上に博物館はあり、巨大なエスカレータが設置されています。

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 大がかりなエスカレータです、維持費が本当に心配です。

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 周りの色が刻々と変化しまるで4次元トンネルを抜けるようです。

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20119tsukushi_209  開館時間に少し時間が有り、ベンチに腰掛けしみじみと素晴らしいデザインの近代的な建物を眺めていた。

しかし、八幡宮からの大掛かりなエスカレータには何処か違和感を抱いた。まるで、バブル時代の遺産のような気がするが私だけの印象だろうか。

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築紫紀行(9) 太宰府天満宮

 承前 築紫紀行(8) 蒙古塚・金印公園

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 早朝にホテルでMuの旦那と食事をとり、タクシーで西鉄の駅に向かい電車で太宰府天満宮を目指した。私は始めての参拝ですが、同行者は再訪のようでした。

 私は藤原氏の陰謀で太宰府に左遷され、2年後にはその地で無念の死を迎えた菅原道真さん、京都方面では可哀そうという事で歴史が語られているが、それでは地元の太宰府の人々もそうなんだろうか。自分達が住んでいる地はそんなに鄙で悲しい場所なのかと思う。

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 ヤマト史観というものではないだろうか。豊前・後、築前・後、肥前・後、薩摩、日向の国々は大陸に一番近く、日本列島では縄文以前から高い文明を築いていた場所だと思う。道真さんは藤原氏が思う程そんなに悲しんで太宰府で生活していたと考えたくありません。左遷させた側が勝手に創り上げた道真さんの悲劇像ではないだろうか。

 私は道真さんは築紫に赴任しても楽しく風雅を楽しまれたと思いたい。太宰府政庁という立場は大陸に対して交渉出来る立場にあり外務省が太宰府に存在したと考えていいのではないだろうか。何時でもいざと言う時にはヤマト王権に反旗を翻し独立可能な位置にいるのが九州ではないだろうか。

 江戸時代だって、九州の諸大名は勝手に大陸と貿易し富を蓄えていたのが事実だ。そして、明治維新が可能だったと思う。築紫が鄙で可哀そうというのは小心者の考えで道真公はそんなではなかったと思いたい。

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 マイフォト 太宰府天満宮 写真集

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築紫紀行(8) 蒙古塚・金印公園

 承前 築紫紀行(7) 天孫降臨神話

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 玄界灘、古来幾多の船が壱岐を経由して朝鮮半島と行き来が行われたのだろうか。朝鮮半島と日本列島とは本当に一衣帯水である。陸の海のシルクロードの始発駅であり終着駅だ。

 『蒙古塚』

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 元寇史跡、『蒙古塚』です。

20119tsukushi_108  文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度の蒙古軍襲来時の古戦場であり、「首切り塚」とも呼ばれていたそうです。

昭和2年に戦死した蒙古軍の兵士や首を切られた兵士を弔うために供養塔が建立された。

多くの兵士は高麗の人々ではなかっただろうか。

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 博多の繁華街が見えますね、昔の儺の津、奴国ですね。

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 モンゴルの兵士たちはこの美しい風景を眺めながら眠っています。

 『金印公園』

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 次は江戸時代に偶然に農夫が発見した金印の出土場所を訪ねます。

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築紫紀行(7) 天孫降臨神話

 承前 築紫紀行(6) 志賀島資料館

 記紀に書かれた日本の神話で天孫降臨という場面が存在します。神代上巻にて天地開闢の話から、国生みの話即ち、イザナギ・イザナミの話が展開しアマテラスとのいざこざがあり、スサノオは出雲に降臨しヤマタノオロチを退治する。そして、クシナダヒメと結婚しオオナムチを産んだ。

 そして、神代の下の巻にていよいよ葦原なかつ国を平定しニニギが降臨する事になります。そこで、出雲に降臨するのかと思うと意外やまるで出雲とは関係ない場所にニニギは降臨するのです。此処が、昔から日本神話の謎と言われています。そして、降臨場所が今だ確定していないのがロマンでもあるのです。

 『定説(有力な説)』

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 記紀神話では、『築紫の日向の高千穂のクシフルタケに降臨したと記録。又、韓国に向かいて笠沙の御前に至ると記録。』

 定説では、霧島山の高千穂に降臨し鹿児島県川辺郡笠沙町の野間岬にニニギは移動したと考えられています。(広辞苑)

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 此処では築紫=九州、日向=日向国、と解釈する考えです。しかし、日向国が成立するのは7世紀です、隼人の反乱が多発し宇佐に本拠を置く秦氏を霧島岳(韓国岳)の南部に移住させ隼人を牽制した歴史から日向国が生まれます。

 私も今までは記紀が成立した奈良朝の時代、ヤマト王権にとり隼人だけが何時までも言う事を聞かない連中なので、霧島連山に天孫降臨させたのではないかと考えていました。

 しかし、北九州に天孫降臨を考える説もあります。

 『高祖山と考える説』

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 古田武彦さんの説だと記憶していますが、博多湾に注目し高祖山に降臨したと考える説です。

 高祖山山系には日向峠という場所も有り、且つ、クシフルという場所も存在したと主張されています。

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 高祖山は伊都国の山城に囲まれた場所でもあり、魏志倭人伝に書かれた伊都国の一大率が置かれた重要な場所である事に注目されます。

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築紫紀行(6) 志賀島資料館

 承前 築紫紀行(5) 志賀海神社その4

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 志賀島の北端、国民休暇村に隣接して志賀島資料館があります。資料館で展示されているパネルは写真に収録しました、興味ある人は写真集を眺めて下さい。

 マイフォト 『志賀島資料館』 写真集

 ところで、資料館でカタログや資料を購入した時に、滋賀県と志賀は関係ありますか?と質問を資料館の人に問いかけてみました。

 女史がすかさず、私の目の前に出されたのが『安曇族』(亀山勝)でした。私は未だこの本を読んでいないが、是非、今度読んでみようと思います。

 参考 『安曇族と金印』(亀山勝)

 亀山さんの話では、紀元前473年に呉の国が滅びますが、その時に大陸を逃れた人々が安曇族だと考えておられるようです。彼らは稲作を日本に伝え、山東半島と貿易を行い且つ、日本列島に商売の販路を開拓し稲作も伝えたという。

 日本語の漢字の発音は呉音である事は周知の事実であり、長江流域の発音である事は今迄の研究で解明されていますね。魅力ある、仮説ではないかと思います。

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 資料館で『金印』のレプリカを観て、意外と小さいと思いました。もっと、大きな印であると今迄考えていました。しかし、これが漢王朝の規格だと、資料館の女史は説明して下さいました。偽物という説もあるそうですが、私は本物だと考えています。その理由は、1956年に雲南省の石寨山古墳群で『滇王之印』が発掘され、漢王朝から下賜された金印でした。この印も志賀島出土の金印と同じく『蛇鈕』であり、此れが本物とすれば、志賀島の金印も本物という事になります。

 私は篆書を読めないので、印を見ても『漢委奴国王』とは読めないです。右端に大きく漢の字があり左端に国王は読めます、真中に委奴と書かれているそうですが、読めないです。気になるのは国という漢字が國と彫られているが、時代が漢の時代に整合するのだろうか少し心配です。確か、ある時期に作られた漢字だという記憶が有ります。

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 ところで、話は志賀海神社に戻りますが、旧歴2月15日と11月15日に開催される『山ほめ祭り』で、『君が代』の神楽歌が歌われているそうだ。祭りの起源は神功皇后と関係が深い。古田武彦さんの説では『君が代』は元来、志賀海神社を本宮とする安曇族の族長を称える歌であったと主張されているそうです。私は手元に古田武彦さんの『九州王朝の歴史学』しか有りません。

 古今和歌集には志賀海神社の神楽が古今和歌集に掲載されたと主張されているそうです。Wikipediaから概要を引用すると以下の通りです。

 

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築紫紀行(5) 志賀海神社その4

 承前 築紫紀行(4) 志賀海神社その3

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 六角堂(ろっかくどう ひょっとすると鹿角堂かも)です。神功皇后が対馬で鹿狩りをされ沢山の鹿の角を奉納されたのが起源だそうです。現在でも1万本以上の鹿の角が奉納されているそうです。

 鹿に関しては、最近記事を書きましたが弥生時代から突然に聖なる動物に変身し、食料対象からは除外され神の使いであるとされた背景を記録しました。

 参考 弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(その1)

 参考 弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(その2)

 此処で、少し神功皇后(書紀では気長足姫尊、古事記では息長帯比売命、ともにオキナガタラシヒメノミコトと呼びます)に関して私の頭の中を整理します。

 ・三輪山付近で栄えた崇神王朝から河内に巨大な古墳群を築いた王朝、即ち河内王朝を切り開いた巫女王が神功皇后である。時代は4世紀と考える。

 ・中国の王朝が混乱し、楽浪郡・帯方郡が消滅し半島には高句麗、百済、新羅が起こり洛東江流域の弁韓・辰韓の鉄資源を生産する伽耶地方が危機に陥り、倭国は半島からの依頼により鉄資源確保の為に半島に軍隊を送り伽耶地方の鉄を守った。これが、神功皇后の三韓征伐の実態ではなかろうか。

 ・彼女の父は息長宿禰王(おきながすくねおう)、母は葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)であり、海の民の系譜を引き特に日本海から琵琶湖の水運を握る息長氏である。又、注目されるのは葛城の血を引く事です。仁徳天皇の皇后も葛城の襲津彦の娘である磐之媛であり、歴代河内王朝の皇后には葛城からでており、雄略天皇に滅ぼされた円大臣(つぶらのおおきみ)まで葛城の繁栄は続いた。

 ・東アジア・朝鮮半島が政治的に混乱になった4世紀に朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡に居住した中国人や鉄資源の生産に従事していた技術者達を多量に日本列島に亡命させたのが葛城氏であり葛城地方に移住させたと考えられる。2千名を越す古代最大の技術者集団は弓月君率いる秦氏ではないだろうか。彼らは最初に葛城に移住した。蘇我氏も含まれると考えられます。

 ・雄略天皇の時代に葛城は滅びるが、その時に蘇我氏・秦氏・加茂氏、等々の渡来系の人々は四散する事になり秦氏・加茂氏は山城の国に移動し今の京都を開拓した。蘇我氏は河内の石川に拠点を移し、徐々に飛鳥へと地盤を広めた。

 ・卑弥呼が2世紀の倭国大乱を鎮め、邪馬台国連合の盟主となり3世紀の中葉に死亡するが神功皇后も混乱した4世紀の東アジアにあり倭国を鎮めた巫女だったと考えます。そして、河内王朝の礎を築いた倭国女王だったと思います。

 ・倭国の統治は琉球と同じで精神世界の頂点に聞こえ大君という巫女が頂点に立ち、現実の政治は男弟(だんてい)が王として執務する社会体制ではなかったかと思います。斉明天皇の頃でも未だ、そんな気がします。奈良時代でも女帝が多く登場しますが、その背景には倭国の卑弥呼の時代から綿々と続く巫女が精神世界を支配するという風土に根があるように思います。

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 境内には沢山の摂社が存在しています。

祇園社や稲荷社や秋葉社、等々沢山鎮座されていました。

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築紫紀行(4) 志賀海神社その3

 承前 築紫紀行(3) 志賀海神社その2

 ところで、日本列島と大陸との海路はどうなっていたんでしょうか。

Photo  一番北側には宗像大社の系列がある海上ルートがありますね、沖の島即ち海の正倉院と呼ばれる宗像一族の聖なる島を経由し対馬や朝鮮半島南部に行き来するルートです。

 もう一つは博多湾の志賀島経由で壱岐に向かうルートが奴国のルートですね。魏志倭人伝の世界では壱岐から末盧の呼子の港を結ぶルートでした。

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 此れは、宗像大社の本宮、中津宮、沖津宮の位置を図示したものです。

海の神はこのような宮の配置を考えるようですが、此れは水平思考、山里の神社は垂直思考です。山の上に山宮があり、麓に里宮があり、人々の暮らす田圃の付近に田宮が存在します。神は山の岩座から降下され、人里に来られるのですね。

 参考 宇佐神宮とヤマ信仰(2004年12月記事)

 中国との交易を考えると、有明海ルートや琉球ルートでは薩摩半島が考えられます。

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 古代は木造船ですから、湊を海には作れない、海に川が注ぎ河口から貿易船が川を遡り繋留する。古代の都が作られた場所は殆どがこのような場所である。

今回の築紫紀行では私の父の祖先のルーツを探る旅でもあり有明海と大陸のルートには大いに関心がありました。

 さて、志賀海神社でした。

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20119tsukushi_033  御由緒によれば、『龍の都』、『海神の総本社』と呼ばれ、歴史は古いようですね。やはり、神功皇后に関する伝承が多いようです。

元々は神社は志賀島の北の端、勝馬の場所に存在したようです。

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 志賀海神社拝殿の様子です。

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テレビ朝日の『砂の器』

 二夜連続で松本清張さん原作のドラマ『砂の器』を鑑賞した。築紫紀行の同行のMuの旦那さんは大の清張ファン、帰路には今回も又、小倉の清張記念館に立ち寄られた筈である。私は晩年の清張さんが古代史にのめり込まれた世界には興味があり、沢山の彼の古代史関連の本や講演録を乱読した経験があります。

 私は最近、彼の『昭和史発掘』を読んでいますが、鋭く社会の裏面をえぐる鋭い刃の切れ味は本邦一ではないだろうか。

 さて、『砂の器』という題名に興味が注がれ、テレビドラマを観賞する前から自分なりに、『砂の器』とは何だろうか?考えを巡らせていた。『砂の楼閣』という言葉があるように、主人公が営々と築き上げた栄光の楼閣も儚く崩れ去る様子を表現しているんだろうな~と考えていた。砂というのは『一握の砂』でも表現されれるように、無機質な儚い夢を表現する事に妙に当てはまるような気がしていた。

 しかし、二夜のドラマを観賞し、今、私が抱く『砂の器』の意味は少し異なるような気持ちです。

 清張さんは社会派であり個人を取り巻く社会体制や環境に鋭くメスを入れる人です。そして、彼の生まれた場所は鉄で有名な築紫の国、物語の舞台は出雲のタタラの世界でした。私の印象は、『砂の器』とは砂で出来た鋳型の事ではないかと感じた。青銅や鉄の製品を生み出すのは鋳型である。製品が出来ると、無残にバラバラに崩される儚いものだ。

 人間を鉄製品と考えると、鋳型は社会体制や社会環境という事になる。鋳型が悪いと粗野な製品しか出来ないのは事実だ。当時、不当に被差別が存在したと考えられるハンセン氏病に対する社会の冷たい目が主人公の子供を育てた鋳型であった。

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築紫紀行(3) 志賀海神社その2 

 承前 築紫紀行(2) 志賀海神社その1 安曇族の総本宮

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 神功皇后(オキナガタラシヒメ)と志賀海神社との深い関係を想像させる伝説です。神功皇后は夫の仲哀天皇と朝鮮半島出兵に関して意見が異なり、出兵を主張したと記紀には書かれています。事実かどうかは別にして、その時代は東アジアが大動乱の時期を迎える4世紀の頃ではないかと私は推測しています。

 中国では魏の王朝の朝鮮半島支配も終わり、混沌とした政治情勢が東アジアを襲います。4世紀の日本列島は謎の4世紀とも呼ばれていますが、中国・半島が混乱し歴史書に倭国を記録する余裕が無かったとみるべきでしょう。奈良盆地東南部の三輪山・磐余・柳本・大和という地域に存在したヤマト王権から河内王権に政治変動が起こった頃が神功皇后・応神天皇の時代ではないでしょうか。

 ヤマト王権にとり洛東江流域(伽耶地方)の鉄資源は生きるか死ぬかの生命線です、中国の王朝が乱れ、朝鮮半島の秩序が乱れ伽耶地方の鉄資源確保に危機が迫り、半島から軍事的な応援の依頼がヤマト王権に寄せられたのではないでしょうか。三韓征伐という動機は当時のヤマト王権には似合わないと思います。むしろ、鉄資源の確保、今で言う中東の石油確保の為の出兵と捉えたいと思います。

 ともあれ、出兵にあたり安曇(阿曇)族の親玉の協力が必要でした。その親玉が志賀島に拠点を置く海の民である阿曇磯良(いそよし)、磯良丸とも伝えられる。当時の志賀島には北部は勝馬と呼ばれそこにも海の民が存在したと考えられる。ともかく、安曇(阿曇)族の協力を得た神功皇后は朝鮮半島に出兵出来たのではないでしょうか。

 私は、記紀で書かれた事が根も葉もない嘘を書いたとは考えません、何らかの史実が背景に存在したと考えています。書紀では神功皇后を卑弥呼に想定した書き方をしており、200年~269年という卑弥呼の時代に歴史をあてていますが、私は4世紀の頃の出来事であると考えています。

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亀石だそうです。

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 志賀島から眺める博多湾の美しい風景です。万葉集には志賀島の歌が数多く収録されているそうです。

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築紫紀行(2) 志賀海神社その1 安曇族の総本宮

 承前 築紫紀行(1) 志賀島を目指す (安曇族のルーツ)

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 志賀海(しかうみ)神社です。今、NHKの朝の連ドラ『おひさま』の舞台は安曇野、古代に海の民である安曇族が開拓した土地が信州の安曇野です。安曇族は海を生活の場とした人々であり綿津見(ワタツミ)の三女神を信仰する人々であります。即ち底津綿津見神(ソコツワタツミ)・中津綿津見神(ナカツワタツミ)・上津綿津見神(ウワツワタツミ)の三女神です。

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 安曇族は私の意見では縄文時代から海の商人として日本列島の津々浦々から、船で各地の川を遡上し交易拠点を築いていたと考えています。信州穂高神社の安曇野の開拓は多分、日本海の姫川の翡翠の交易の為に拠点を糸魚川流域にも築いたのが最初と考えています。青森の三内丸山遺跡で発掘される姫川の翡翠も安曇族がもたらした可能性が高いと思います。

 安曇族は日本海沿岸から琵琶湖の水運へも進出し、神功皇后の生まれた息長氏も安曇族の一派であり彼女は朝鮮半島に遠征に出る時も琵琶湖から日本海ルートで博多湾に出かけています。(仲哀天皇は瀬戸内海ルート)

 安曇族の痕跡は列島の津々浦々に残っており、和歌山県の日高郡の志賀、渥美半島、熱海、等々ときりが有りません。実は私の母のルーツが安曇族である事が確かです。名前が渥美でした。この件は別途詳しく調べる予定です。父は筒族であり住吉神の系譜の海の民でした。という訳で、私は日本を代表する二つの海の神を信奉する2部族の血を引く人間である事が判っています。

 志賀海神社に戻ります。ワタツミ(綿津見)とはワタ=海の古語、ツ=の、ミ=神霊であり海の神霊という意味になるようです。戦前の教育を受けた人なら誰でもワタツミと聞けば海の神と理解出来ますが、戦後の教育を受けた人は知らないでしょうね。

 安曇族と志賀(シカ、シガ)とは関係が深い事が今回の旅で判りました。志賀海神社には沢山の鹿の角が奉納されているそうです。鹿は神の使いですが、その背景は弥生時代に遡る事を最近記録しました。

  参考 弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(1) 

  参考 弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(2)

 現在の滋賀県のルーツは志賀となるんでしょうね、何故なら安曇族である息長氏の故郷であるからです。その後、継体天皇も息長氏の父系(琵琶湖西岸の高島)と安曇族の越前の母系を受け継いだ天皇でした。

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築紫紀行(1) 志賀島を目指す (安曇族のルーツ)

 私は羽田から福岡空港に飛び、地下鉄で博多にでて友人とホテルで待ち合わせた。レンタカーで先ずは江戸時代に出土した金印『漢委奴国王』(委の字は倭の簡略体の委を使用)の現場を観る為に出かけた。

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 左手に博多湾が見える。地図で観てみましょう。

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 博多は古代では奴国と呼ばれた倭国を代表する国でありました。詳しくは昔の記事を参照して下さい。

 参考 邪馬台国への旅(続篇) その5 奴国(2010年12月記事)

 那珂川、御笠川、宇美川を超えると奴国の北には不弥国が存在していたようです。我々は一路、志賀島を目指します。現代では砂州で陸地とモンサンミッシェルのように繋がっています。天橋立のようでもあります。

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 綺麗な砂浜が志賀島まで帯のように繫がっています。運転は京都のMuBlogの旦那さんです。

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明日から数日間、築紫紀行で休載します

 明日朝、羽田から福岡空港に向かい築紫の古代史探訪の旅に出ます。ついでに父親のルーツも辿ろうと考えています。曾祖父までは戸籍謄本を辿り判明しております。正確には曾祖父の父までは辿りついております。

 現在確実に訪問できそうな場所は、金印が出土した志賀島の訪問です。現在は雲南省に属しているが、石塞山古墳から出土した「滇王之印」と同じく蛇鈕の金印であり漢王朝から下賜されたものです。昔如何に奴国が倭国を代表して中国・朝鮮半島との交易で栄えていたかが判ります。

 参考 邪馬台国への旅(続篇) その5 奴国(2010年12月記事)

 興味ある方は伊都国編や帯方郡から邪馬台国への記事も参考にして下さい。

 そうそう、今回は大宰府や九州国立博物館、そして吉野ヶ里遺跡も訪問する予定です。

 初日は博多で宿泊し、二日目は佐賀の予定です。九州は仕事でも殆ど足を踏み入れた経験もなく僅かな経験しかなく、むしろそれでわくわくしています。

 今回の旅のきっかけは京都に住む爺さんが仕事で九州に行かれるという話を聴き、現地で偶然に出会う格好でお互いきょうみのある所は同行しましょうという話になりました。

 明日から遠足のような気持ちでおります。しばらく休載しますが、楽しい築紫紀行をご期待下さい。

 

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弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(その2)

 承前 弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(その1)

4. 特別な建物『たかどの』は一般の家や倉庫と異なる

 弥生土器や銅鐸に描かれた建物は殆どのが高床式の建物であり竪穴住居ではない、又、単独で建物を描くのではなく、動物や人間と一緒に描かれているのが特徴。最も多く絵画土器が出土する唐子・鍵遺跡、清水風遺跡の建物では棟の両端に渦巻き状の棟先飾りが見られ特殊な建物であると考えられる。

 辰巳さんの話では此れは、古墳時代に大王が王権儀礼をする『たかどの』ではないかと推測する。記紀では、「高台」、「台」、「楼閣」、「観」、「楼」などと表記されている物ではないかと推測。例として、仁徳天皇が皇后と一緒に難波高津宮の高殿にのぼり、国中から煙がたたないので、民は疲弊してると考え3年間課役を免除した話がある。

 此れは、辰巳さんの話では台所から煙が出てる話ではなく、大王の国見の大王儀礼を記録しており、民の湧き上がる生命力の気を大王は受け止め、我が物にして国土の繁栄を予祝する儀礼を表していると考えている。民の気力が湧いていないので、大王は課役を免除したのである。

 政治家には本当に「国見」は必要なんですね。

5. 鹿は土地の霊でもある

  「日本書紀」や「播磨国風土記」などで鹿にまつわる地名伝承が多く伝えられています。鹿がその土地を支配する霊であると考えられていたようです。例えば、辰巳さんの話では仁徳天皇が陵の土地を探していた時に、野原から鹿が飛び出してきて突然倒れた。鹿の耳からは百舌鳥(モズ)が飛び出して飛んで逃げた。鹿は大事な霊力を持つ耳を喰い破られ霊力を失い死亡した。そして、その土地を百舌鳥耳原と命名したという話がある。

 神の声を聞く予知能力を持つ耳を失った鹿は霊力を失い大王がその土地を奪っても構わないという話になる。中臣祭文によれば、「鹿の八つ耳」という祭文があるそうです。神々は鹿のように多くの人々の意見を聞く為に鹿の耳が必要であると説く。

 6.高殿での王権祭儀

 万葉集巻一に舒明天皇の国見歌があります。天皇が香具山に登り国見をしました。『・・・国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は』とあります。煙は湧き上がる活力・生命力となります。国土の繁栄を予祝するのが国見である。

 仁徳天皇は皇后と一緒に高殿ののぼり、菟餓野(とがの)の鹿の声を聴く王権儀礼を行っている。此れは秋に行われ、牡鹿が牝鹿を求めて鳴く牡鹿の声に紙の声を聴くとともに、そこに新しい生命のはぐくみを期待された。『鹿鳴聴聞の儀礼』と辰巳さんは命名していました。ひょっとすると、高殿で性的な儀式が行われたのではないかと辰巳さんは推測されている。

 高殿ではこれ等以外にも、大王が夢を観た内容を皇后に告げ、その意味を皇后が占う『夢占いの儀』や、『袖振りの儀』(稲魂の再生と豊饒を祈り鳥の姿をしたシャーマンが鳥の羽ばたきをまねた動作で魂を奮い立たせる儀式。)が行われた。

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スリランカ紀行(35) 世界遺産キャンディ 仏歯寺その3

 承前 スリランカ紀行(34) 世界遺産キャンディ 仏歯寺その2

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20115surilanka_949  仏歯寺のなかの展示場で見かけたものです。仏塔やシンハラ族かタミール族の古代文字で書かれた石像ではないでしょうか。

 ガラスのケースは昔此処に仏歯が納められていたのかも知れない。今は永平寺から贈呈された防弾ガラスに囲まれ厳重に保管されているそうです。

 いずれにせよ、撮影は禁止です。

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20115surilanka_950  昔、インドから王女が髪の毛の中に仏歯を隠してスリランカに持ち込んだという。4世紀頃の話だそうだ。4世紀の東アジアは大動乱の時代でした、王女が髪の毛に隠して大事な物を持ち込む話は、シルクロードの国に中国から嫁いだ姫さまが髪の毛の中に繭を隠して持ち出した話と似ていますね。

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弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(その1)

 最近、以下二冊の本を読みました。

 『弥生時代の始まり』(春成秀爾 東京大学出版会 1990年3月初版)

 『弥生人の鳥獣戯画』 (香芝市二上山博物館編 雄山閣出版 1996年3月初版)

 春成さんはこの数年、歴博で放射性炭素14法で弥生時代の始まりの時期を500年早めたり、箸墓古墳が240年~260年建造とセンセーショナルな仮説を提案され、考古学会に波紋を投げかけておられます。彼の弥生時代に関する考え方が素人にも判り易く解説された本が上記の本です。又、弥生土器に線刻された鳥獣や人物、建物に関しても博学である。

 二冊目の本は考古学者の石野博信さんが中心になり、橋本裕行、辰巳和弘、野本寛一、そして童話作家、切り絵作家の方々が集まり『創作 弥生版 鳥獣戯画』を創作された内容を納められています。非常に貴重な本だと思いました。是非、古代史ファンの人であれば一度は読まれる事をお勧めします。

 私の読後感や疑問やメモを残します。

 1.壺は弥生時代から本格的に製造される

 縄文時代の土器は煮炊用の土器、即ち甕が使用されていた。しかし、弥生時代から貯蔵用の壺が出現し甕と壺が弥生遺跡からは同じくらい出土する。あと食料を盛る鉢や供献用として高坏(たかつき)が存在する。水田稲作が始まり、画期的に社会生活環境が激変した事により、種籾貯蔵用としての壺や酒を始め水溶性の食料を貯蔵する壺が必要になった。

 古墳時代を代表する前方後円墳の形状は纏向型前方後円墳から箸墓の形状に進行したと考えられるが、『壺形 宇宙観』がその背景にあるという考えが最近の考古学では有力ではないでしょうか。

 2.弥生時代から鹿は神聖な生き物となる

 縄文時代は遺跡からイノシシと鹿の骨は同じ程度出土するそうですが、弥生時代から突然に食糧対象(狩りの対象)としては鹿が存在しなくなるという。むしろ、鹿の肩甲骨を使い卜占の材料として使用された焼けた骨が出土する。どうやら、水田稲作の開始と関係があるようだ。

 鹿は10月頃、丁度、稲に実が結実する頃に発情するという。ススキに穂が出る頃と同じだという。そして、5月頃に子供を産む、丁度、水田稲作では苗代で稲の芽がでる頃だと言う。鹿の生命のサイクルと稲の生命サイクルが同じなのだ。そして、5月に牡鹿の角は生え換わるという。稲の生命と鹿の生命を同じように考えた可能性が高いと言う。

 弥生土器や銅鐸には沢山の鹿が描かれるようになり、それは祭祀に関わる絵であると考えられるそうだ。そういえば、春日大社は神祇に関わる中臣氏(藤原)の神社であり鹿が神の使いであると考えている。藤原氏の出身元である鹿島神社もそういえば鹿の漢字が使用されている。

 そして、神話として鹿の血だらけのハラワタに稲の籾を撒くと、一晩で稲が成長したという話も鹿の生命が稲の生育を助けると信じていたようだ。今でも、東北地方で鹿の格好をして踊るお祭があるが、その背景には弥生時代からの鹿に関する神聖と関わりが深いという事らしい。

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ベトナム縦断1800キロの旅(15) 中部編 フエ、グエン朝王宮跡(2)

 承前 ベトナム縦断1800キロの旅(14) 中部編 フエ、グエン朝王宮跡(1)

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 旗台にはベトナム国旗が翻っています。グエン朝の国旗は日本の国旗にとても似ていたんですが、御存知でしょうか。

日章旗・日の丸に関しては歴史が古く語ると長いので止めますが、明治になり突然出現した訳では有りません。日本人のアマテラス信仰(太陽信仰)が原点にあると思います。

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 旗台を挟んで向こうにも門があり、砲台が有りますね、左右対称になっているようです。

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 鳳凰が翼を広げた格好をしている王宮の午門です。

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スリランカ紀行(34) 世界遺産キャンディ 仏歯寺その2

 承前 スリランカ紀行(33) 世界遺産キャンディ 仏歯寺その1

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 それでは、仏歯寺への参拝です。靴を脱ぎ受付で預けます。スリランカ最後の寺院となりました。

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20115surilanka_936  入口の両サイドに佇むレリーフです。改めて、タイやアンコール、チャンパの仏教寺院やヒンドゥー教寺院の芸術作品に与えた影響を感じます。日本はやはり北周りのシルクロードの仏教芸術だと思いました。

 何故、飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本は朝鮮半島や中国に仏教を求めたのでしょうか。本来は、スリランカに留学しなければ、ならなかったのではないでしょうか。

インド本土では仏教が廃れたが、釈迦の教えや釈迦自身が3回も訪れていた仏教の聖地、スリランカに留学すべきだったと思います。

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 さて、寺院に入りました。

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ベトナム縦断1800キロの旅(14) 中部編 フエ、グエン朝王宮跡(1)

 承前 ベトナム縦断1800キロの旅(13) 中部編 ダナンからフエへその4

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 1802年から1945年まで続いたグエン朝(阮朝)の王宮跡を訪問します。1887年からはフランス領インドシナとして存続していました。

2世紀からグエン朝が建国するまでの長い歴史ではチャンパ王国としてチャム族の貿易国家として栄えていました。

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 周濠で囲まれた王宮が見えて来ました。今はベトナム国旗が翻る旗台があります。中国の紫禁城を手本とした阮朝の王宮・王城跡です。

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 濠を渡ります、皆さん橋の上で魚を釣っているようです。

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スリランカ紀行(33) 世界遺産キャンディ 仏歯寺その1

 承前 スリランカ紀行(32) 世界遺産ダンブッラ黄金寺院(7) 境内

 ダンブッラの黄金寺院(石窟寺院)をあとにして、一路南下し仏教の聖地、『聖地キャンディ』で世界遺産に登録されているキャンディを訪問した。シンハラ人による王国の最後の都(15世紀~19世紀)であり、釈迦の犬歯が納められている『仏歯寺』があります。

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 釈迦がインドで火葬にされたあと、犬歯がスリランカに4世紀に持ち込まれ、歴代王朝の都で大事に保管されて来た歴史がある。既に紀行したアヌラダプーラで大事に保管された時代もありました。世界中の仏教徒にとり釈迦のお身体の一部が確実に存在する『仏歯寺』はまさに、『聖地』と考えられています。

 何回かに渡りこのキャンディの『仏歯寺』を記録したいと思います。

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 『仏歯寺』です。スリランカ最後の王朝が都したところであり、西欧風の建物になっています。

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 仏旗がはためいています。

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