築紫紀行(9) 太宰府天満宮
早朝にホテルでMuの旦那と食事をとり、タクシーで西鉄の駅に向かい電車で太宰府天満宮を目指した。私は始めての参拝ですが、同行者は再訪のようでした。
私は藤原氏の陰謀で太宰府に左遷され、2年後にはその地で無念の死を迎えた菅原道真さん、京都方面では可哀そうという事で歴史が語られているが、それでは地元の太宰府の人々もそうなんだろうか。自分達が住んでいる地はそんなに鄙で悲しい場所なのかと思う。
ヤマト史観というものではないだろうか。豊前・後、築前・後、肥前・後、薩摩、日向の国々は大陸に一番近く、日本列島では縄文以前から高い文明を築いていた場所だと思う。道真さんは藤原氏が思う程そんなに悲しんで太宰府で生活していたと考えたくありません。左遷させた側が勝手に創り上げた道真さんの悲劇像ではないだろうか。
私は道真さんは築紫に赴任しても楽しく風雅を楽しまれたと思いたい。太宰府政庁という立場は大陸に対して交渉出来る立場にあり外務省が太宰府に存在したと考えていいのではないだろうか。何時でもいざと言う時にはヤマト王権に反旗を翻し独立可能な位置にいるのが九州ではないだろうか。
江戸時代だって、九州の諸大名は勝手に大陸と貿易し富を蓄えていたのが事実だ。そして、明治維新が可能だったと思う。築紫が鄙で可哀そうというのは小心者の考えで道真公はそんなではなかったと思いたい。
マイフォト 太宰府天満宮 写真集
『飛梅』だそうです。道真公が京都を離れる時に別れの歌を読んだ相手の梅さんです。
『東風(こち)吹かば 匂い起こせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ』
私は歌の心構えがないので、昔から東風が春の季語だとは知らず、何で九州に行く人が西風ではなく東風と梅に行ったのか物理的に理解が出来なかった。心情的には西に左遷され築紫の彼方に住む自分を思い出してもらうには西風だと思っていました。
しかし、梅も偉いですね、追っかけて太宰府まで来るとは涙の物語です。古来、入鹿の首が飛ぶとか、将門の首が飛ぶとか、ヤマトタケルの魂が白鳥になり飛ぶとか、日本人は魂は空間を超越するという思想を持つのでしょうね。
始めての天満宮、写真集を是非ご覧ください。
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