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築紫紀行(6) 志賀島資料館

 承前 築紫紀行(5) 志賀海神社その4

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 志賀島の北端、国民休暇村に隣接して志賀島資料館があります。資料館で展示されているパネルは写真に収録しました、興味ある人は写真集を眺めて下さい。

 マイフォト 『志賀島資料館』 写真集

 ところで、資料館でカタログや資料を購入した時に、滋賀県と志賀は関係ありますか?と質問を資料館の人に問いかけてみました。

 女史がすかさず、私の目の前に出されたのが『安曇族』(亀山勝)でした。私は未だこの本を読んでいないが、是非、今度読んでみようと思います。

 参考 『安曇族と金印』(亀山勝)

 亀山さんの話では、紀元前473年に呉の国が滅びますが、その時に大陸を逃れた人々が安曇族だと考えておられるようです。彼らは稲作を日本に伝え、山東半島と貿易を行い且つ、日本列島に商売の販路を開拓し稲作も伝えたという。

 日本語の漢字の発音は呉音である事は周知の事実であり、長江流域の発音である事は今迄の研究で解明されていますね。魅力ある、仮説ではないかと思います。

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 資料館で『金印』のレプリカを観て、意外と小さいと思いました。もっと、大きな印であると今迄考えていました。しかし、これが漢王朝の規格だと、資料館の女史は説明して下さいました。偽物という説もあるそうですが、私は本物だと考えています。その理由は、1956年に雲南省の石寨山古墳群で『滇王之印』が発掘され、漢王朝から下賜された金印でした。この印も志賀島出土の金印と同じく『蛇鈕』であり、此れが本物とすれば、志賀島の金印も本物という事になります。

 私は篆書を読めないので、印を見ても『漢委奴国王』とは読めないです。右端に大きく漢の字があり左端に国王は読めます、真中に委奴と書かれているそうですが、読めないです。気になるのは国という漢字が國と彫られているが、時代が漢の時代に整合するのだろうか少し心配です。確か、ある時期に作られた漢字だという記憶が有ります。

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 ところで、話は志賀海神社に戻りますが、旧歴2月15日と11月15日に開催される『山ほめ祭り』で、『君が代』の神楽歌が歌われているそうだ。祭りの起源は神功皇后と関係が深い。古田武彦さんの説では『君が代』は元来、志賀海神社を本宮とする安曇族の族長を称える歌であったと主張されているそうです。私は手元に古田武彦さんの『九州王朝の歴史学』しか有りません。

 古今和歌集には志賀海神社の神楽が古今和歌集に掲載されたと主張されているそうです。Wikipediaから概要を引用すると以下の通りです。

 

 志賀海神社 『山誉め祭 神楽歌』

 『君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで あれはや あれこそは わが君のみふねかや・・・・・・・』云々と続きます

 糸島・博多湾一帯には千代の松原、伊都国王墓とされる平原遺跡の近くに『さざれ石神社』が存在し、井原鑓溝遺跡や井原山など地元の人がいわら=いわお と呼ぶ地名が存在する。又、桜谷神社には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ、狭い地域に『君が代』の歌詞が登場するゆかりの場所が存在する。

 古田氏は君とは安曇族の族長を指し、即ち、九州王朝の王を称える歌であると主張されているそうです。

 もうひとつ、高千穂の峰、日向の地に関して、実は宮崎や鹿児島ではなく、博多湾であるという説が有るんです、その話は次回にお譲ります。

 参考(井原鑓溝遺跡) 邪馬台国への旅(続篇) その7

 参考(平原遺跡) 邪馬台国への旅(続篇) その4 伊都国続編

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